あぐらぐち物語 −中村君版− 1997年11月分





1997年11月30日(日) 雨

「夜逃げと引越し」

 実家の新築が終わり、今日は引っ越しだ。自分はもうアパートの生活中心で、あまり家のことには かかわらなかったが、しばらく手伝いに行ってきた。一応自分の部屋もある。取り壊すときに アパートに自分の荷物を全部持ってきたら、部屋がいっぱいになりすぎてレイアウトもできない 状態だったので、これで少し返せる。それにしても、今年はもう引っ越しはこりごりだ。 整理整頓が下手なのか、自分の物が多すぎるようだ。「毛利元就」の「妙」なみだ。 4月5月と、アパートが決まってから実家を壊すまで、毎日仕事と平行して、自分の車で少しずつ、 夜逃げのように物を運んだ。学生時代の友達が引っ越すときも手伝うのは夜が多く、洗濯機を 暗闇のなかで3回ぐらいかかえたように思う。自分のオンボロスターレットも大活躍した。 最終的にテレビやベットがもらえたので感謝だ。


1997年11月29日(土) くもり時々雨

「アクセス1000人突破・ありがとうございます」

 夜7時からもちをつきはじめて、11時をすぎてしまった。配達は朝早いし、これが連続すると 結構しんどいが、日中はよく雨が降って荒起こしが中止になるので、仕事量としてはうまく帳尻が あっているように思う。
 さて、3ヶ月でカウント1000の大台にのった。どうにか目標達成だ。見る人がいるからこそ、 書く気にもなる。社長にはちょっと水をあけられてしまったが、更新の時間帯が不定期なのが 主な原因だと思っている。訪韓中も更新することを事前に宣伝しなかったのはまずかったが、 夜中までFAXを書き、よくがんばったと思う。海外や学校の友人関係など、独自のルートも 増えてきた。またなにかご要望や感想があればどしどしお寄せ下さい。

 ところで、やっと訪韓中の日記が書き終わり、日付がつながりました。遅くなりましたが、 よろしかったらバックナンバーもご覧くださいませ。


1997年11月28日(金) くもり

「ちょっと嬉しかった話」

 一日中トラクター作業。夕方、ATMへお金をおろしに行ったら、若い女性が一人、順番待ち していた。前の人はやたらと時間がかかっている。でれっ、と彼女を眺めていたら 「今何時ですか」と声をかけてきた。実は自分もあせっていた。6時をすぎると手数料105円 かかるからだ。「もう6時ですよね」とあきらめようとした彼女を「いや、まだ3分あるから 間に合う」と引き止めた時に丁度前の人が終わり、結局自分も間に合った。なぜか最近、 見ず知らずの人に声をかけられることが多くなってきた。韓国でも、何か物を訊ねられたり、 地下鉄に乗ってる時は中国語で話し掛けられたり。「いい人」という雰囲気が醸し出されているのか? 今回は若い女性だったから特に気分がよかったのだが、やはり「いい男」というよりは 「お人好しのおじさん」に見えたのだろうか?声をかけやすい年代ってあると思う。 自分も、相手がおじさんなら話やすいが、女子高生ぐらいだと近寄りがたい。 まあ、「おやじ」っぽくなってきたことは各方面からも言われているので否定はしない。 一人暮らしのせいか、そういう見ず知らずの人とのちょっとしたふれあいっていいなと 思えるようになってきた。


1997年11月27日(木) くもり

「トラブルメーカー」

 韓国研修では、いろいろと不思議なこともあった。まず出発するとき、 空港の出国審査で、私の直前の人が偽のビザの疑いでどこかへ連れていかれた。 「このビザ偽物でしょ!」と係員が緊迫し、警備の人も来て 2つある窓口の1つが自分の直前で閉じてしまった。 アンソンからソウルへ車で移動中、自分達の前を走っていた車が 急ブレーキで溝へ転落した。 ロッテワールドへ行く時は、自分達がホームへ着くか着かないかのうちに 地下鉄が故障、というアナウンスが流れて大勢の人の移動がはじまり、 ロッテワールドでバイキングに乗ろうと順番待ちをしていると、 自分達の前の人達が終わったあと、客と係員のトラブルで運転がストップ してしまった。日本でもなかなか遭遇しないようなことが次々と 自分の直前で起こり、少し恐い気もするが、実質的に自分はなんら 被害は受けていない。通訳の人も「珍しい事件」と言ってたし、 韓国の治安は日本と全然変わらないという印象を持ったが、 なぜわざわざ韓国でこんな刺激的な経験が連続したのだろう? ひょっとしたら昨年死んだじいちゃんが、露払いでもしててくれたのか、 と思ったりもする。私の直前で何かが起こる、という噂は今のところ日本ではない。 恐がらないでね。


1997年11月26日(水) 嵐

「筋肉痛」

 昨日ははしゃぎすぎたようだ。集中力よりも腕力を使ってボーリングを楽しんだのだが、 腕を中心に、痛くてだるい。3人で一チームなのに、1人足りなくて、2人で3人分投げた。 3連投もあり、最近運動不足だからとにかく力任せに投げるのがおもしろかったが、今日はしんどい。 田んぼは2枚起こしたところで雨が降ってきた。これも恵みの雨?まあ、トラクター作業で 筋肉はあまり使わないのだが。とにかく、腕力を復活させるべく、逆療法でボーリング場へ・・・ ビリヤードにしようか?。


1997年11月25日(火) 晴れ

「ボーリング大会」

 今日は1日中トラクター。そして夕方からは農業青年のボーリング大会だ。4地区合同だったらしい。 自分は2ゲームで230ぐらいだった。やはり韓国のボーリング場は、レーンが短くてピンが 軽かったのか?谷口さんはひそかに団体3位と個人43位とかいうすごい?成績で賞品を2つも もらってた。自分は参加賞以外はひっかからなかったが、表彰の集計中の場つなぎのラジオ体操 が一番楽しく、ひさびさにはしゃいでしまった。それにしても、我が松任・石川郡地区からは 個人優勝とブービー賞が出るのだからたいしたものだ。


1997年11月24日(月) 晴れ

「伝統」

 今日もお休み。久しぶりにぐっすり寝た。我が社で祝日に仕事が休みになるのは割と珍しい方 かもしれない。でも本当は、祝いもちの仕事がたくさんないと会社としては都合が悪い。 そういえば自分も、25歳の厄払いはしなかったしなあ。そういう伝統や習慣はなくなってきている ように思う。しかし24歳が体にとっての節目というのは自分にとっては本当だった。 形式や行事はともかく、経験による大切な真実は受け継いでいきたいものだ。


1997年11月23日(日) くもり

「お休み」

 朝は祝いもちの配達。ねむいのは別として、特別体がだるい。丈の短いズボンで田んぼに出たせいか、 ひどく足首がかぶれてしまった。これが体の栄養を不足させているように思う。帰って寝る。


1997年11月22日(土) 雨

「多言語社会」

 田んぼ1枚だけ起こしたが、やっぱり雨がふり、お店番。うれしいことに、結構お客さんが来るが、 たまにしかしないから、自分の応対はたどたどしい。「この100%コシヒカリのお米を食べると、 もう他のお米は食べれない」と言ってくれる人もいて、やはり正直だと報われる、と思う。 午後からは「7カ国語で話そう」の講演を聞きに行った。前半分しか聞けなかったが、言語の数が 多いからといって、そんなに混乱はしないそうだ。英語と日本語だけだと、普段使っている言語と そうでない言語、というふうに対極的になり、結局は英語に親しめないが、多言語だとそれも なくなっていくそうだ。自分も韓国でそれを感じた。韓国語や中国語が片言しか話せない分、 英語が通じるならありがたい、ということで日本にいるときより抵抗がなかった。 そして国際化という点での日本の遅れを感じた。日本で身近に、3カ国語でコミュニケーション する人はいないが、韓国人は英語、日本語を話せる人も多い。生まれた国によって、 多言語を身に付けるのは自然なことだから、日本は日本語だけ、というのも仕方ないが、 外国人から逃げようとする日本人は多いのではないか。自分もなるべくなら、日本語以外では 話したくなかったが、今回の研修で少し自信がついたと思う。


1997年11月21日(金) くもり

「雨、雨、ふれ、ふれ」

 台湾のフローレンスからうれしいニュースがきた。あるソフトウエアを使ったら、日本語と韓国語が 彼女のパソコンでも表示できるようになった、とのこと。「しかしとても残念なことは、私はまだ 日本語が読めない。」前回は表示できないのが残念、と言ってたから、結構彼女もユニークかも。 しかし彼女は日本語ばかりか、韓国語もこれから学びたいそうだ。お互い漢字を使うから、 ある程度はすぐわかるだろう。自分も来年は海外からの農業青年をできるだけフォローしたいので、 英語を軸に、中国語と韓国語を勉強するつもり。と、そんなときに、大学生協北陸共同事業部主催の 語学学習のイベントのビラが入ってきた。「7カ国語で話そう」という講演が目にとまった。 講義は学生時代でこりごりだが、自分が行くべき場なら、雨がふって畑仕事は流れるはず。 さて、縁があるや、なしや?


1997年11月20日(木) くもり

「4H」

 一日中トラクターに乗ったあと、運動もかねて久々に犬の散歩をしたら、大量に汗をかいた。 走りっぱなしなので、今はTシャツ姿だ。
さて、韓国研修の受け入れ団体である、4Hクラブについて説明しておこう。 活動の綱領・信条は、
・農業の改良と生活の改善に役立つ腕(Hands)をみがく
・科学的に物を考えることのできる頭(Head)の訓練
・誠実で友情に富む心(Heart)をつちかう
・楽しく暮らし、元気で働くための健康(Health)を増進
の4つのHである。上の文は、全国農業青年クラブ連絡協議会のものだが、技術・頭脳・心・健康 という部分は世界共通と思われる。アメリカで1911年に3Hから4Hになり、クラブ員数は 300万を超え、世界50数ヶ国に普及しているそうだ。日本では色々な名前の農業青年の集まりが あるが、4Hは広まっていないように感じる。韓国の大会では、中学生ぐらいから中年の方まで 参加しているように見受けられた。農業に就いているかどうかは関係なく、台湾からは学校の先生が 4人来ていた。来年の全国大会には、アジア各国からたくさん呼ぶ、と県知事が言ったそうなので、 私も楽しみにしている。
下の写真は、韓国の4H本部前で、事務局長たちと。






1997年11月19日(水) くもり

「誰と、何色?」

 昨日の夜は農業経営セミナーに参加した。松任の改良普及所で、20人ぐらいだったが、 講師の方は以前、鹿島町での会議で、町の活性化に農業に取り組んではどうか、と提案したそうだ。 それがきっかけで、農業後継者受け入れの制度ができたらしい。このセミナーにはちょうど谷口さんも 参加していたので、それがわかった時、いいだしっぺと採用第一号のご対面となり、 室内はにこやかなムードになった。これも運命の赤い糸?(色は緑か?)
さて、今日はひさびさにトラクターに乗った。訪韓中は天気がよかったので、さぞかし荒起こしが すすんだかとおもいきや、トラクターがずっと修理中で、私のためにたくさん仕事が残してある。 研修疲れは、落ち着けなかったのが主な原因だと思うので、荒起こしはひさびさに何かにもくもくと 集中でき、いいリハビリだ。


1997年11月18日(火) 嵐を呼ぶ男

「海外からのアクセス」

 雨のおかげで、韓国研修の疲れをいやすことができる。都合のいい雨男だ。 やるべきこともたまってるし、韓国へ行ってやりたいことも出てきたからちょうどよい。 まずはお世話になった人に手紙を書く。ハングル文字は慣れるのに時間がかかりそうだ。 手紙といえば、フローレンスから返事がきた。驚いたようだが、喜んでもいたようだ。 あの英語のページは日本の人にはどうだったのだろう?結構恥ずかしい内容だから、 読めないほうがよいのだが。タイミングがよかったのか、彼女からの返事は、自分がメールを 送ってから1時間後にもうこちらに届いていた。私は英文を書くのに3時間ぐらいかかったが、 彼女は30分ぐらいなのだろう。母国語は中国語だから、条件は変わらないはずだ。 おそるべし。自分は和英辞典だけでは足りず、英和辞典とも照らし合わせて書いている。
ところで、韓国にいたときも思ったのだが、海外のパソコンで日本語を正常に表示させるには なにが必要なのだろう?漢字は中国や韓国、台湾の人にも理解できるのだがなあ。


1997年11月17日(月) 恵みの雨

「祝・ワールドカップ最終予選突破」

 雨で田起こしには行けない。風邪気味の私には幸いだ。 たまった日記やメールを書いている。日記を後日書く、というのはもう日記では ないかもしれないが、毎日の出来事はできるだけ記録しておきたい。 あとで自分で読むことはほとんどないと思うが、なんとなく癖になった。
21世紀機構へ帰国のあいさつにも行ってきた。 東京の農村青年教育振興会へは報告へ行くことになっているが、 来年の全国大会のためにも、ぜひ県内で報告の場を作って、と訴えてきた。 「来年はフランスで開催を・・・」とは喉まで出かかったが言わなかった。 昨夜は嬉しかった。Vゴールの瞬間は感激で涙が出た。 これで6月まで、サッカー以外のことに集中できそうだ。(ホントか?!) 自分も農業の日本代表として、メールのやりとりなどで活動していきたい。


1997年11月16日(日) ぼーっ

「英語の勉強」

どうも、疲れた感じだ。どれだけ寝てもだるい。韓国での最終日に、気が抜けてカゼをひいた のかもしれない。昨夜は今までで一番大量にもちをこねて、今朝は配達。こねる時は握力を使い、 たくさん汗をかき、ふらふらになってしまったが、手の動きは速くなったと思う。
英文を書くため、和英辞典を買った。これだけ英語を使う気になっただけでも、韓国まで行ったかいが あったというものだ。以前、韓国の人が日本に来たときは通訳の人数が足りなかったそうだ。 来年は少しでも直接コミュニケーションして、海外からのお客さんをもてなしたい。


Sat, 15 Nov 1997 Clear skies like my heart

"A faint love"

すみません。今日は英語で書かせてください。(sorry,today I write by English.)
The e-mail came from Miss Florence.She is Taiwanese I met in Korea. In the letter she said,she visit my homepage,but her computer can't read Japanese.
In korea,first her and my eyes met,we smiled.And then,she gave me some candy. It was very glad and I had beginning to feel charm to her.




This photo taken in folk village at SUWON. It was first time for me to taken a photo folding female's shoulder. We had lunch and enjoyed talking.At that time,I knew she will marry next month. I did a little disappointed love,because I liked her.But,she is charming and wonderful girl, it was a pleasure to talk wiht her in spite of my poor English. I was happy because probably feeling was affected though poor English. Now,I am filled with heartrending sorrow,the more I want but can't meet her.
I will send mail to Florence and tell her please try to see my home page again.


1997年11月14日(金) 高度5千フィートは晴れ

「ただいま」

 韓国から無事、帰還しました。11日間がずいぶんと長く感じた。とにかく疲れた。 韓国の人は意外と夜更かしなのか、どこでももてなされて、一人になれる時間がほとんどない。 寝るのはいつも2時、3時だった。FAXを使える場所も限られているし、日記を書く時間や場所を つくるのが難しい。頭に記憶しておいて、思い出しながらまとめて書いていた。ホームステイ中に 音信不通になったのはそんな理由だ。それにしても、浩陽さんはよくワープロ打ちしてくれたし、 アクセス数も増えているので一安心。結構、浩陽さんの日記にも自分のことが書いてあり、 笑ってしまった。でもなぜ、私がスポックの親戚だとばれたのだろう?

※・・・韓国での写真は随時、紹介していきます。
    11〜13日の日記も近日中に書きます。


1997年11月13日(木) 結局晴れ

「会長に怒られる」

 午前中は4Hの本部で、感想など研修のまとめをした。また、会長と日韓の歴史や 世界の貿易・農業経済などについて議論した。自分が韓国で一番したかった話だ。 「勉強不足だ」と怒られたが、とにかくこのオヤジは通訳を間に挟む間も一方的にしゃべりまくるので 手におえない。自分も反論したいことはたくさんあったが、それには通訳ぬきでも会話できるように ならなければ。しかし、会長のいう、ヨーロッパのようにアジアも共同体を作っていかなければ、 という意見ももっともだ。それを実現するにはやはり自分の主張する「身土不二」のような 市民レベルでの運動が大切だと思う。とにかく、有意義な時間だった。思想や情熱を学ぶために 韓国に来たので、来たかいがあったというものだ。日本へ帰ってからもやりとりしていきたい。
午後からは観光。自分の希望で戦争記念館へ行った。「韓国戦争」が「朝鮮戦争」のことだと 気づくのに一瞬時間がかかった。抱き合う兵士の大きな像があり、「これは北と南の兵士で、 平和を意味する」と説明を受け、感動した。
そして、最後の夕食。答えなければいけないアンケートがあるのに、10時ぐらいまでもてなされ、 もうヘトヘトだ。しかし、研修もすべて終わった。あとは明日キムチを買うだけだ。 いろいろと長かったが、いい経験をさせてもらった。もうこれで終わりと思うと少しさびしい。 また必ず、今度はフリーで来たい。


1997年11月12日(水) 別れの雨

「ロッテワールド」

 台湾の人が今日で帰ってしまう、ということで、昨夜は午前3時ごろまでホテルの一室にみんなで 集まり騒いでいた。最後に「蛍の光」をハミングしながらマッチ棒で炎をリレーしていく時はちょっと 感傷的になった。英語、中国語、韓国語、日本語入り乱れてのおしゃべりだったが、もう2度と、 この集まりがないと思うとさびしい。そして、午前6時に見送り。早い便だが、フローレンスが 帰るとあらば、起きないわけにはいかない。台湾からは10人も来てるのに、多分彼女以外は 中年の人なので、彼女も自分や岡元君と話す方が楽しかったように見える。旅先の出会いって、 美化されるんだよねえ。もう会えないと思うほど想いはつのる、幻想の恋かなあ・・・
さて、今日は1日中観光。雨なので、現代デパートやナイキショップで買い物したり、ロッテワールド で遊んだりした。自分は気に入ったコーヒーカップと韓国代表のユニホームなどを買った。 ロッテワールドはビルの中にある遊園地。屋内のジェットコースターは初めて見た。そしてなぜか、 結婚式の記念撮影をしているカップルがたくさんいる。ウエディングドレスで遊園地を歩いている 人を何十回も見るのはなんか変だ。右の写真は美人通訳(観光ガイドにしてしまった)のオーさんと。 下に見えるのはスケートリンク。





1997年11月11日(火) やっぱり晴れ

「日本代表、大人気」

昼すぎまで、民族村見学。おとといも行ったのだが、今回は台湾の人が一緒だ。中年の人が多い中で、 一人だけ、若い女性がいる。彼女の名はフローレンス。台湾人は普通、中国語を使い、名前は漢字だが、 英語名を持っている人もいる。彼女の英語の発音は洋画で聞いたようにきれいだ。岡元君と通訳の オーさんはデートの練習をしてみろ、と私にけしかけ、彼女は日本語がわからないのをいいことに、 「ボーリングに誘え」「下手だからしたくない」と断られても「教えてあげるからと言え」など、 好き勝手の言いたい放題。彼女が来月結婚することが判明しても、「彼氏はアメリカに留学中だから 今がチャンスだ」「本気なら今のうちに奪うんだ」など、面白がって私を操ろうとする。 まあ、自分も楽しかった。外国で、相手も外国人だったからできたことかもしれない。
そういえば、昨日初めて台湾の人に会った時、急におばさん達に囲まれた。私を指名して写真を 撮ったり、なんかもててたみたいだ。「モシソヨ(ハンサム)」と言われ、自分はマシイソヨの間違い だと思って「マシイソヨ?」と言うと大笑いされた。台湾の女性はおいしそう、と伝わったらしい。
さて、夕食までは全国大会の会場見学。昨日の開会式もテレビ局がきてたし、今日は岡本君が インタビューされた。見る時間がなかったので、放送されたかどうかは定かでない。
夜はいよいよフェステバル。「ありらん」は台湾の人が歌うことになっていたので、昨夜、 「サランヘ」という歌をカラオケで特訓した。韓国語での謝辞も教えてもらった。 本番では司会の人に、「韓国に来た感想は?」と質問され、通訳を通さずに韓国語で答えたかったので 「マシイソヨ(おいしいです)」と答えると場内大爆笑。吉本興業系の、林農産のノリで大成功だ。



各地区対抗の綱引き大会。日本台湾   歌って踊って大騒ぎ。
連合軍は、韓国人の増援を得て大勝利。


1997年11月10日(月) 晴れ男

「国際的な日」

いよいよ、全国農村青年大会。台湾からも代表が10名来ている。大学で中国語を少し勉強したので使 ってみると見事に通じてうれしかった。日本を出発してから、コミニュケーションする場合、英語が一 番力になる。へたでも韓国語よりましなので、意外と英語が苦にならない。この日は日本語、英語は もちろん、挨拶程度だが韓国語と中国語も使っている。極めつけは、自由時間に岡元君と通訳の オーさんと3人で洋画を見に行ったらフランス語の映画だったことだ。字幕はもちろんハングル文字。 さっぱり分からない。


1997年11月9日(日) ずーっと晴れ

「良縁」

チャンさんに会えて良かった。昨夜も遅くまで話をしたのだが、波乱万丈の生活を送ってきたらしい。 ある赤字の会社の経営診断を頼まれた時社長に「10分前に出社して便所掃除しろ」といって黒字に持 っていったそうだ。どこかで聞いたような・・・?またチャンさんがお菓子をくれた時「どうぞ、おか まいなく」というと「別に、かまう気はないねん。期待するな。」なんて言ってくれたり愉快な人だ 。
さて、今日は岡元君の友人のキムさんと観光。キムさんは以前、岡元君の家に3日間ホームステイした ことがあり、わざわざ、遠い所から来てくれた。東京から大阪まで車で来た感覚かな?8時間ぐらいか かったらしいが、自分達は小松から飛行機で2時間なので申し訳ない気持ちだ。民族村で遊び、いい気 分転換になった。
アンソン最後の夜ということで、夕食はやはりチャンさんのお店で焼肉。ユウさんは畜産の仕事もして いるのに、3日間とも夕食に付き合ってくれた。言葉は通じなくても、心意気は伝わってくる。同じ若 き経営者ということで、岡元君は彼にライバル心を燃やしている。岡元君は、酒もたばこもやらず、け っこう自分に似ている部分が多いし逆に正反対の面もある。偶然とは思えない組合わせだ。 しかし、自分達が日本の代表として見られていると思うと、相当偏っている気がするなあ。


1997年11月8日(土) あいかわらず晴れ

「韓国料理マシイソヨ(おいしい)」

あちこち見学したが、見るだけだと退屈だ。作業着を持ってきたが、今のところ使う機会がない。 毎日、ステーキ・焼肉を食べている気がするし、もっと筋肉を動かしたい。夕食はユウさんの家に 招かれた。ユウさんの嫁さんは農協に勤めていて、日本の農協について質問をしてきたり、 しっかりしてるのが印象的だった。そう言えば、チョンガー(独身)とは、「チョンガーキムチ」 という韓国語が語源らしい。私がチョンガーだと分かると、「韓国の女性はどうだ?」など、 韓国に来てから何度も冷やかされている。
こちらでもサッカーの「日本vsカザフ」戦を放送しているのは知っていたが、ユウさんの家で話が 盛り上がり、チャンさんの家に帰ったのが終了15分前だった。大勝に「一緒にフランスへ行こう」 と韓国の人も祝福してくれた。直後のニュースでUAEの様子も放映されていたが、日本では どうなのだろう? とにかく、こちらは日本よりサッカーの人気がありそうだ。自分も日本へ帰ったら またフィーバーしたい。


1997年11月7日(金) 今日も晴れ

「通訳は関西弁で」

加平郡とも今日でお別れ。季さんは以前、日本に行ってあちこちで良くしてもらった経験があり、 「そのお返しがしたい」とのことで本当にお世話になった。何度もおいしい食事をごちそうになり、 ありがとうございました。パクさんも日本語、英語が話せないのに年の離れた自分達の世話をして くれて、お疲れ様でした。来年の全国大会に、韓国からお客さんが来たら是非お返しがしたい。
さて、安城(アンソン)郡に入る。時間も遅いので、農村指導所をしばらく見学した後、 すぐホームステイする家に向かった。通訳のチャンさんの家に3日間泊めてもらうのだが、 何と焼き肉屋を開店してまだ1週間と経っていない家なのだ。なんてラッキーなんだろう。 夕食は自分達を加平まで迎えに来てくれた2人を交えてプルコギ(焼肉)。ユウさんは、 経営の細かい数字まで、突っ込んで質問してくる。加平は過疎の村だったが、やっと農業青年に会えた。 体つきは、番場さんや河二さんに似ている。チャンさんはまるで日本人のように日本語が自然だ。 「おおきに」と言われて心が京都へ飛んだ。大阪など、日本に長い間いたらしく、 自分も気楽になれる人だ。


1997年11月6日(木) 放射冷却

「ライブカフェにて」

国際電話をかけたいが、なぜかカードが使えない。現地の人も理由がわからない。試しに300ウォン でかけてみると、10秒ぐらいで切れた。まあ、由佳里嬢の「はい、林農産です。」の一言が聞けたの で良しとしよう。生きている事は伝わったはずだ。(実は、伝わっていなかった)会社では、さぞかし 休憩の時の笑い話になっているだろう。
10日からの全国大会では、何か芸をすることになるかもしれないので、韓国の「ありらん」という歌 を教えてもらい、カラオケでも練習したが後で歌の内容は、男女の捨てられて追いかけてという歌だと 聞いてまいった。でも韓国では有名な歌らしい。
夜は、ライブカフェに行った。日本から来た人のために、ということで五輪真弓の「恋人よ」を歌って くれた。「かれはちるゆうぐれは〜」と聞こえてきて感激。


1997年11月5日(水) あしたも晴れ

「日本代表銭湯に行く」

牛牧場や、きのこ農家など、あちこち見学するが見るだけだと退屈だ。食べさせてもらうのだから働き たいが今はたいした仕事もないようだ。どこへ行ってもワールドカップの話が出る。「負けてくれて、 ありがとう」「UAEには勝って欲しい」というとウケていた。私たちの希望で、銭湯に行かせてもら った。英語、日本語が少し出来る店番の人に「日本人の客は初めてだ。」と言われた。サッカーの選手 ではないが自分達もたった二人の「日本代表」なのだと気づいてうれしくなる。
加平(カピョン)郡は韓国の中でもいなかのようだが、ボーリング場がいくつかある。入ってみると6 レーンしかない。3ゲームして私のハイスコアは150と日本でもあまり出せない数字だが岡元さんは 193だった。


1997年11月4日(火) 韓国は晴れ

「沈黙の会話」

午前中はオリエンテーション。ソウルは東京より立派かと思うほどの大都市だ。車で1時間走ってもビ ルばかりの景色が続く。道路も片側だけで4車線が当たり前で金沢など比べ物にならない。
昼食は日本料理。刺し身が山盛りで天ぷらもおいしい。日本でもなかなか食べられないほど豪華だ。午 後から、あちこち見学して名刺が底をつくというピンチを迎える。農村指導所で李さんにコピーしても らって助かった。FAXも貸してもらった。機器には「LOTTE canon」「RISO」と書い てある。
夕方から加平郡でホームステイ。主人のパクさんは英語も日本語もほとんど話せず、岡元さんと3人で 辞書片手にたびたび沈黙する会話が続いた。


1997年11月3日(月) いい天気

「でたとこ勝負2」

小松空港で、初対面の岡元さんと待ちあわせるので電話すると「テレビで見たので分かります。」と 言われた。岡元さんは自分と同じS44年の10月生まれだが農業の世界では大先輩。自分の服装は、 上が韓国(赤)下が日本代表(青)とサッカーのユニホームに合わせたハデな格好だ。
韓国についた時さっそく、しばらく迎えの人と会えないというトラブル発生。岡元さんはタクシーの 客引きに度々声をかけられるが自分はなぜかかけられない。服装が変だからか?
夕食は事務局の人達と、豪快な焼き肉。岡元さんは英語が上手でけっこう話しているが自分には 良く分からない時がある。ワールドカップの話が何度か出てうれしかった。コミニュケーションには、 英語、韓語、日本語を使うが、意外と混乱せず、そんなに不自由は感じない。


1997年11月2日(日) 秋晴れ

「でたとこ勝負」

 いよいよ明日だ。自分はジャンボジョットの離着陸の練習に余念がない。(ゲームセンターで) できれば船で行きたいが、のんびりもしてられない。 生きて帰れるかわからないので、辞世の句でも残しておきたいが、自分にはそんな芸もないようだ。 パスポートと航空券があれば、あとは着の身着のまま、と考えていたが、 お金を忘れていた。空港で両替はできるだろう。 いんろうは持ったが、韓国で通用するか?(弥七はついて来ない) いきあたりばったりの、気ままでちゃらんぽらんな旅が好きだが、さてどんなことになりますやら。


1997年11月1日(土) くもり

「やったぜ日本!」

 おめでとう日本代表!まさか、勝てるとは思わなかった試合で勝てたから驚きだ。 当初の予定では、昨日のうちに韓国入りしているはずだったが、研修中にテレビを 見られたかどうかわからないので、今日はテレビ観戦できてよかった。 青い服装で韓国入りすることに燃えていたが、今は赤い服を用意しようと思う。 なんってったって、サッカーは韓国の国技だ。日韓友好のためにも、 ホームステイ中は一緒にプレーして、ワールドカップ共同開催の成功を誓いたい。 (いったい、自分は何しに行くんだ?)
さて、特番終了後の高跳びが遅れたが、今のところたいして恥ずかしい思いはしてない。 家賃を払いにいったときに「時の人」なんていわれたが、いったいどれだけの人が 自分に気が付いただろう。ともかく、一つ、肩の荷が降りた感じで、これからすぐに 韓国研修というまた大きなイベントがある。しかし結局のところ、ワールドカップ予選がずーっと 気にかかっていて、これが終わるまでは落ち着かない。明日のUAEーウズベ戦は UAEが勝てない気がするし、そのほうが安心して韓国へ行ける。訪韓中に最終戦が あるのがはがゆいが、きっと好ましい結果がでてるはず。




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