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日記を、日付順に、読みたいので、1番下へ行く

あぐらぐち物語 1997年09月分


1997年9月30日

今度の青年塾の課題図書の「吉田松陰」を昨晩2冊一気読みしたら、深夜2時までかかった。さらに、今から感想文を書くのだが、名前は知っていたが、すごい人だなと感動して読んだ。
私自身、明治維新はあまり好きでないので、人気の坂本竜馬を含めてもほとんど読んだことがなかった。勝てば官軍で、結局、勝ったから正義という感じがしていやだったが、どうも、松陰はそんな生やさしい人ではなかった。本当に、正直に生きた人で、ある意味では、大馬鹿者であるが、今の自分の馬鹿ぶりに照らしてみて、ここまでやると本当に人は動くのだなと感じた。
だれも見ていないから、例えば、農薬を使用したりしてもばれないのに、なぜ、そんなにこだわるのと言われるが、松陰を読んで、これでいいんだと自信がついた。ただ、私が志士気取りになるというのは、早計で、自由課題は、蓮如を買ってきた。やはり、加賀一向宗の末裔としては、読む必要があるだろう。
志ネットワーク新潟大会で、稲刈りした魚沼のコシヒカリが届いた。圧倒的に本物は違うと感じました。なんていうか、飴色で透明感があって、粒が大きくてそろっている。食べるのが楽しみだ。しかし、HPで正直に、敗北宣言している私はやはり、大馬鹿者かもしれない。


1997年9月29日

ようやく、コシヒカリが終了した。いよいよ、カグラモチの番だ。同時に、お餅のパンフレットの作成も進めているが、この時期が一番、頭と体がしんどい時期だ。もちつき本番は、もう社長の仕事は終わっているので、今が勝負だが、稲刈りもしなくてはならないので、いつも両立が難しい。
ここのところ、コイン精米が大繁盛で、列を作って精米しているので、明日の締めが楽しみだ。近所にある2ヶ所の精米所が、故障したので、どうもそうなっているみたいだが、来て頂いたお客様にリピーターになってもらうチャンスなので、今日、メーカーの方を呼んで、色々細かい整備をした。この時期は、新米は問題ないが、超古米も投入される可能性もあるので油断ならない。超古米は、クモの巣状に虫が巣を作っている、信じられない状態のものもある。
しかし、コイン精米機の周りをきれいにしておくと、不思議に、そんなトラブルもお客様の方で避けてくれているみたいで、良く、お客様が、装備されたほうきで掃除をされているのを見ると、本当にありがたい。


1997年9月28日

日曜日だったが、今日は、小作料現物と言って、田んぼを預けてくれているお客様の家へ、お米を運ぶ日だったので休出になった。本来は、「年貢」というもので、昔は田んぼ一反部(葯1000u)の年貢米として、お米を、地主に渡していたが、現代は、借地料としてお金で払っているので、希望者のみの現物の支払いになっている。しかも、希望数は限定がないので、欲しいだけ渡している。したがって、逆にお金を頂く方も出てくるが、それも我が社にとっては大切なお客様である。
しかし、その小作料現物も、年々数量が減って来ている。つまり、農家といえども、食べる量は目に見えて減って来ているのである。あの、平成5年の不作の年には、爆発的に増えたが、喉元過ぎればなんとやらで、スーパーで買うわという方や、我が社の店でいつでも買えるので、いいわという方が増えている。後者の方の方が多いと思っているが、最近の住宅事情もあるように思う。大体、食料庫なんてある家なんて最近見たこと無い。車庫はりっぱなのが付いているが、しかし、欧米に比べ、危機意識がよほど低くなっていると、この数字を見ても感じる。
ただ、お米を運ぶのは、サービスのひとつだが、年に一度お客様の顔を見て、挨拶するのも目的なので、これほど、感謝される場面が多い仕事もないと思う。昔は、オバーチャンが玄関で正座して、運ぶ間中、手を合わせて拝んでいたことがよくあった。今はそこまでは、なかなかないが、まずボーイズが感動する仕事の一つである。


1997年9月27日

朝から、保育園の運動会で親子で走ったり飛んだりで帰ってきた。午後はのんびり読書をしていたが、ふとテレビを見ると、自主転作宣言の町、東和町のドキュメンタリーをしていた。見ているうちに、ものすごく熱くなってしまった。あれほど、転作を嫌っているので町長が、味方になってくれると思った農家が大反対しているのである。つまり、補助金が減ったら営農できないというのである。
町長は、転作せずにドンドン米を作って、東京で高付加価値で販売すれば農家のためだと言うのだけど、受け入れてもらえない。普通、逆の場合が多いと思うのだが、6月29日に見てきた鷹巣町の福祉問題と良く似ていた。実は、転作補助金が問題の本質ではないと思っている。補助金が無ければ営農できないと思い込んでいる農家の考えにすべてがある。過去の、4000年の農業の歴史で、農業者が日の目を見ないのは、この依存的考えがすべてだと、そろそろ気づいてもいいのではないかと思うが、まだまだハードルは高そうである。
まあ、転作は、一人でも未達成だと、地区の転作補助金をペナルテイーで減らすというやり方が、そもそも大昔から変わらない、百姓の扱い方である。つまり、この扱いには「尊敬」という言葉はかけらもない。尊敬される、百姓になってこそすべては回り始める。「補助金がなけりゃ農業なんて出来ない。」なんて言っている人を誰が尊敬しますか。「補助金がなくったって、出来る可能性に賭けてみます。」とでも言えば、「おー」と世の中から共感の渦が巻き起こって、変わっていくと思う。しかし実は、私が戦慄したのは、その補助金がなけれ農業出来ないと言っている農家のお父さんが、息子に農業するかの問いかけに「しね。」の一言だった。
だったら、国の税金をもらうのはおかしい。補助金もらわないと農業が出来ないと言って、もらっているのに永続的な農業が出来ないのなら、もらわない方がましである。国の予算の4分の1が借金だということを、まったく認識していない発言に非常に憤慨してしまった。次回の青年塾の場所が、山口県の萩で、吉田松陰の本を読んでいるところなので、あまりにも明治維新前夜の日本に似ていて、考えてしまう。その中で、松陰の先生が外敵に対して、自分は第一陣で、松陰は第2陣、そして、第3陣を育てなくてはならない。というくだりがあったが、我々が、第1陣になる時であろう。
今の時期、山と積まれたお米を見て、売れ残るのではと不安に思わない日はないが、知恵と工夫で「売ろう!」と思うエネルギーがある限り、大丈夫と信じている。東和町の農家の人たちには、自分を信じてぜひ、自主転作を成し遂げてもらいたい。


1997年9月26日

昨晩は帰ってきたら深夜2時であった。さすがに、激論になってしまう。一番、話しているのは、実は私なのだが、今回の会場の主は、無農薬稲作もさることながら、ヒメマツタケという健康食品も作っていて、売り上げの割には、まったく減価償却がなく、さらに借金残高もほとんどない。どうしてそうなるかというと、農機具のほとんどが中古で安く買ってきた物で、その中古の度合いがすごい。我が社の豆落し機も譲ったが、完全に使い切ってとても修理できない物を持っていたが、修理してバリバリに使っているそうである。
西に、倒産した会社があると聞くと飛んでいき、東に壊れた機械があると走っていくのだから、私が「農業界のハイエナ」と呼んだら、憤慨して自分は「フンコロガシ」だと言っていた。つまり、違う価値を見出して使っているという意味だが、まあ天才的な技術力が彼の経営を支えている。とにかく、エコロジーな農家で、当然肥料は自分で作っている。一体、何を買っているのかと思うほどである。しかし、その後の別の事例の発表が、そのまったく逆で「イケイケドンドン」の経営だったので、一体どっちが正解かということになってしまった。私は、前者の考えなのだが、「イケイケ」の時もあったのは事実で、どちらも正解とは今は言えないのかもしれない。
絶対の悪いことはあるが、それ以外はみんな自分を信じて進んでいる。そもそも、人間が生きていること自体罪と言うことに気づいているか、どうかということが分岐点かもしれない。こんな、話はきりがなくて結局深夜になってしまった。明日は、次男の保育園の運動会もあって、お休みになった。運動会だ、チャッチャチャチャッ♪。


1997年9月25日

夕方、雨が降ってしまって、思ったほど刈れなかった。段々天気が悪くなっていくので、あせって刈っている。この前の、ワールドカップ予選で、敵チームが「チェンジ オブ ペース」とか言って、ダラダラ、パスを回していたかと思うと、いきなり、攻撃をしかけていたが、まさしく我が社のやり方だ。ところが、周りがついて来ない時も、良くあり困ってしまう。
休憩時間は、おそらく全国の農業法人で、一番長いと思うが、それに代えて、作業に対する集中力への要求は厳しい。その辺は、なかなかレースレベルなので、理解が難しいと思うが、どうせコイツに言っても無駄だと思わず、繰り返して言うようにしている。
それと、夕方にスター中村を撮りにテレビ局が来たが、今回は、コンバインに搭乗してオンボードで撮影した。カメラマンは結構恐そうだったが、迫力の映像が撮れたのではないだろうか。中村君が運転中に、トラブルように、ベルトをゆるめておいたが、今回は大丈夫だったようである。
今晩、稲刈りの最中、勉強会がある。無農薬栽培をしている仲間の家でするのだが、疲れているので止めようかなと思っている時こそが、本当に自分のためになると思って出かけていく。


1997年9月24日

ひどい二日酔いだった。やっぱり、疲れがたまった状態で飲んだのがまずかった。運良く?朝、雨が降って午前中、稲刈りが出来なかったので助かった。しかし、午後から天気が持ち直し、ようやく一回目のコシヒカリの稲刈りが終了した。
次のコシヒカリは5月末に田植えした物だが、全然倒伏していないので、ノンビリ刈ることが出来る。ところが、お客様から、もち米はまだかと矢のような催促が毎日ある。秋祭りに使用したいらしいが、カグラモチは刈り取りが遅いのでそうもいかない。おまけにコシヒカリを刈った後、乾燥機やコンバインを掃除してかからないと、もち米にうるち米が混じるので、稲刈りを始められない。


1997年9月23日

こう稲刈りが長丁場になると、ストレスがたまってくる。そのストレスを解消するのに、私の唯一の行き付けの居酒屋がある。ここの大将、50ウン歳だが、バリバリの現役ライダーで、だいぶ前に、近所で「どかおじ」という石川県ドカテイクラブの会長がやっている店があると聞き、妻と出かけていった。帰りがけに、実は私もバイクが好きでと一言、言ったらガレージまで見に来た。ドカもハーレーも全部またいで行ってからの付き合いだ。鈴鹿に差し入れを持って来てくれたり、飲みに行ったら、色々、おまけで出してくれるし、時々、近江町市場で、抱き合わせで売られたと言っては、デッカイ塩鮭を持って来てくれたりと親切にしてくれる。
この店まずカラオケがない、それに車で飲みに行っても、帰りは大将が家まで送ってくれる。それに、我が家では絶対に食べれないものも、出してくれる。まあ、ここで刺し身を食べたら他では食べられない。なによりも、食べ物より、バイクの話で盛り上がるのが、楽しい。確か、8台位持っているはずだが、奥さんの目を盗んでは、次のターゲットを画策しているようである。そして、また私と友人のガレージに来ては、パーツについて語って帰って行く。今晩、行っちゃおうかなあー。


1997年9月22日

昨年まで有機無農薬のハーブ園だったところの稲刈りをした。ミントの香りがなんとも言えずさわやかな感じだった。こりゃ、ハーブコシヒカリで売れるぞと思っていたら、有機肥料の残留が多くて、病気になってしまい、仕方なくこの田だけ消毒してしまったので、店では売れなくなってしまった。少し位、消毒したものが混じっても分かりはしないが、殺菌殺虫を散布しないと言う、うたい文句が嘘になってしまう。嘘や、例外があると「気」が落ちるのである。
朝から、全開稲刈りで、コンバインから火を吹きながら刈っている。そんな中、地元の北陸放送さんが、今研修中の、谷口さんを取材に来た。我々の間では「つぶやきタニヤン」と呼ばれる、38歳の青年だが、能登の鹿島町での事業で、田んぼは準備するから、担い手はいないかと広く募集したら、手を挙げたのが彼で、現在、我が社で修行中である。「素人が農作業の研修と言うことですが、どうですか?」と聞かれて、「いやー、まったく役に立ちませんねー。はっはっは。」と言ったら、カットになってしまって「いやー、どうせプロでも経営が出来ないなら、素人の方がいいですよ。」と言っておいた。
彼を別名「スター谷口」とも呼んでいる。我が社には「スター中村」もいるのでニューフェイスを二人も抱えていることになる。マネージャーの私としても、マスコミ対策には気をつかう。今度タニヤンが、鹿島へ芋掘りに行くという情報をわざと、リークしたり、色々している。最近、そうこうしているうちに、二人ともいい顔になってきた。スターはカメラで磨かれるというのは本当らしい。


1997年9月21日

長男の小学校の運動会があった。本当は、見に行けるはずだったが、稲刈りが遅れて日曜出勤にならざるをえなかった。しかし、昼休みに、ご飯を食べてすぐに見に行った。幸いにも小学校は目と鼻の先なので行くことが出来る。私が子供の頃は、運動会に親が来るなんて考えもしなかった。大体、未成年の頃に、交通違反で家庭裁判所に行った時も、親を連れて来て下さいと言われたのに、忙しいと言って途中で帰ってしまったくらいだ。
すると、いきなり障害物競走で一等賞になったので、まずまずだった。親に似て走るのは、あんまり格好になっていないが、風呂敷きをマントに結ぶところは早かった。毎日、ミニ四駆で鍛えているだけある。どうも、環境が悪いのか良いのか、ガレージには工具は山ほどあるし、この前見たら、5歳の次男がなんと電動ドリルでボデイに穴を空けていたのでビックリした。そのうち、溶接機を持ち出すのではないかと心配だ。
自分達の頃の小学校は、1200人のマンモス校だったので、運動会でもあんまり出番がなかった。今の小学校は600人余りで、いろんな競技に出れて楽しいそうだった。だって、運動会だもん♪か。





1997年9月20日

ようやく主役のコシヒカリの新米がお店に並べることが出来た。色々な事があるが、やっぱり収穫はうれしいものだ。しかし、今日の稲刈りは、もう泥のとの戦いだった。1週間も降り続いた雨は、相当地面を柔らかくしている。クローラー(ゴム製のキャタピラ)が空回りして、コンバインの底を擦りながら、泥をかぶった稲を時々詰まらせながら作業だ。
しかも、田んぼは、こんなにもあったのかというほど、多くのコンバインや軽四トラックが出て来て大渋滞。さらに、土曜日で一般の車も多くて非常に気を使った。さらに、大量のドロを道路上に撒き散らしながらの田んぼへの移動で、それを取り除くのにも、命懸けになってしまう。その度に、大声を出して指示をせざるをえないので、異常に疲れた。
この疲れの原因は昨晩、ワールドカップ最終予選を深夜まで見ていたせいであるが、終わった後も興奮して眠れなかった。私も実は、高校大学とサッカー部で、観戦中は、声が思わず出てしまう。昨晩はそんなシーンが異常に多い試合だった。夜中なので、「ウッ!」とか「ゲッ!」とか「キショオー」とか唸っていたので、妻があきれて見ていた。


1997年9月19日

やっぱり、昨日の会合では一番に挙手をして、プレハブ庁舎の話をしてしまった。良く考えたら、若い我々が一番お世話になるのだから、一番発言するのが当然だろう。
それと、やっと稲刈りが出来た。朝、起きたら雨がシトシト降っていてさすがにガックリした。どうも、地面に近いのは芽が出始めているみたいなので、事は急を要する。明日から、全開だあ。


1997年9月18日

昼ごろ晴れて一度は、稲刈りに出ようとしたが、また雨が降ってしまった。仕方がないので事務の仕事をしたり手紙を書いたりで一日を過ごした。案外、これが肩がこって疲れる。
志ネットワークの方々から手紙やら、色々な物が送られてきた。本当に、マメな方達である。今、考えているのが、餅と寒天の組み合わせ。なんとか、柔らかくておいしいお餅を、みんなに食べさせてあげたい言ったら、天然の寒天を使った材料やらソバやらを送っていただいた。それと、以前いすず自動車の風土改革の社内誌を頂いて非常に感動したと話したら、塾生にと言って沢山送っていただいた。もったいないことである。せめてコシヒカリがとれたら送るとしよう。
今晩、我が町の役場庁舎の構想委員会に出かけてくる。色々考えたが、バリアフリーはまず思い付いたが、あとは国家予算のことを考えたら、プレハブの役場で、自らの姿勢を見せるのが一番じゃないかなと思ったりもする。庁舎を建てるのも公共事業だが、他に使うべき所は山とあるはずである。そんな金があれば、デイサービスや、ゴミの対策に使えばいいと思う。でもこんなこと言ったら次は呼んでもらえないだろうな。でも、きっとそんなこと言っちゃうのが私の性格だから、言うだろうなあ。


1997年9月17日

晴耕雨読に、なってしまった。みなさん思い思いの事をしていたが、私は今年のお米の予約の申し込み書を作っていた。予約なので少し店頭価格より安いのだが、良く注意して価格設定や、決まり事を決めないと、もめる原因になる。特に、我々農家と違うのは、お米の単位で普通農家が使うのは、1俵2俵という単位で、一般のお客様は10キロ20キロの単位。ややこしいのは、この辺はまだ混在していて、どちらの単位でお客様が考えているか読めないことにある。
今日、「さくらももこ」のプロダクションから宅配の包みが届いた。実は、高校の同窓生が、ももこさんのだんなさんだったいう、うそみたいな話がこの前の同窓会であったということを、現在進行中の石川県の農家の紹介誌の編集会議で話したら、ぜひ原稿を書いていただけということになってしまった。言う方は簡単だけど、彼とは同窓会で話しは出来なかったし、確か1年の時に一度同じクラスになっただけで、お願いしろと言うのだから無茶な話だと思ったが、今年の新米とこのHPの日記をコピーして、企画書を添え、手紙を書いているうちに、原稿を書いてもらえなくても、今の自分の考えを知ってもらえるだけで楽しめてしまった。
その後、音沙汰がなかったので、お忙しい方なので仕方がないと思っていたが、だんなさんから丁寧な手紙とともに、本まで同封してあって感動してしまった。結局、原稿は超多忙な、ももこさんは、すべての新しい仕事をお断りしている状態で無理だったが、私の頼みということもあって、スタッフでかなり検討していただいたみたいで、かえって申し訳なかったと思ってしまった。なんと原稿料は、5000円なんですが、お金はまったく関係ないということでした。どんなにお金を積まれても賛同しないキャンペーンには寄稿しないし、賛同するものにはただでもやるというのが、モットーだそうです。
なにはともあれ、断られても、なにやらうれしい出来事だった。有機コシヒカリも送る約束をしてあるので、収穫したらさっそく送らねば。


1997年9月16日

まだ台風は来ない。やっと今晩から明日にかけてピークだ。おかげで、もみすりは進んで、乾燥機もタンクもすべてカラッポになった。稲刈りが再開されれば、全開で刈るので、丁度良いとするか。
夕方、志ネットワークの方が、預けてあった花を届けてくれた。新潟大会の際に泊まったリゾートホテルのハウスで作ったキンギョソウが、客室に持ち帰り用として置いてあったのを、車で帰られると聞いて、あつかましくも預けたものだ。
しかし、志ネットワークで会う時は、人間皆同じと思っているのだが、いざ、事務所で会うと思うと、非常に緊張した。若くして、従業員が何百人もいる会社の社長さんで、ただそれだけなら普通だが、人格者で、実は「掃除に学ぶ会」など色々声をかけてくださるのも、この方である。
今回は、時間がなくて会議室のみだったが、今度いらっしゃる時まで、掃除をしておかなくては。この方は、「林君には、志より大事なものがある。それは、バイクだ。」とおっしゃり、早くハーレーを、チャリテイーか何かで、売ってしまえと常々言われている。ガレージは見せられないなあ。


1997年9月15日

雨が、シトシト降っていて、もみすりしか出来ない。今日は、敬老の日だが、世話をしている青年団に面白い話を聞いた。文化会館でセレモニーがあるのだが、最近は入りきれないほどの、お年寄りが集まる。それで、結局立ち見の方が出るのだが、中のひとりが「若いもんは、立て!」と叫んだのである。もちろん全員、お年寄りなので、立つ人はいなかったそうである。
しかし、どう見ても、最近はお年寄りの方が元気だ。寝たきり青年の方が絶対に多い。寝たきり青年とは、仕事のみして、その他は家で寝ている若者のことである。まあ、いずれにしろ、我々の時には、おそらく85歳以上でないと、敬老の日のイベントには呼ばれないことは確実であろう。
しかし、この19号は足が遅い。早く、過ぎてくれないものか。大体、19号という響きは、いやな思い出がよみがえる。明日は、もみすり全部終了して、迎え撃つとするか。


1997年9月14日

新潟から帰って来たら、大雨だった。今回の研修の目玉は、新潟の稲刈り研修だったが、実は、もう一つ「リゾート」というのがあった。そして、その第3セクターの会社の社長の講演を聞くことになっていたが、私はもう「リゾート」と聞いただけでカチンと来ていて、さらにこの社長さんが、東京電力の原子力担当だったと聞いて、またまたカチンときてしまって、最初からなんで志ネットワークでこんな人の話を聞かねばならないのか疑問だった。
きっと、宿泊するので、そのお礼か何かだと思っていた。ところが、話を聞いてビックリ。最初は、名ばかりの社長で、軽く引き受けたが、土地の買収で地元の方々と会っているうちに、色々なことに気づいた話から始まって、最後には、地元に腰を据えるために、鎌倉から移住してきたそうです。それが7年前で、その後の社長さんや、地元の方々の触れ合いの話は、涙ものでした。普段、補助金大嫌いの私が、「善」ということで、そういう方々をひっくるめて「悪」としてきたことに対して、大いに反省しました。
さらに、とどめは、懇親会もなかばで帰られたので、もう77歳なので帰って休まれるのかと思ったら、98歳の母親の付き添いに病院に行ったというのですから驚いた。つまり、家族みんなが、こちらに住んでいるわけで、社長さんの本気さが、うかがわれた。
その社長さんが、地域を変えるのは、「若者」「ばか者」そして「よそ者」ですよと、言われてハッとした。思い当たる節が、いっぱいあるからである。「ばか者」というフレーズは中村君の日記にも出ていたし、海辺のコンサートもそうだろう。
ザウルスでメールを送ったが、なんと、確認のために読み込んだら、サーバーから消してしまった。酔っ払ってやっても無駄だった。


1997年9月12日

明日、志ネットワークの新潟大会に出かけるので、今日は、かなり無理して刈った。乾燥機も、これ以上入らないくらいに、満タンだ。
今回の新潟行きを、ビデオを撮って来て下さいと、テレビ局の方に言われて、カメラを渡された。うまく撮れるか心配だが、人格的にかなり上の方々を前にして、平常心で撮れるかが心配だ。私にとっては、現在のところ、もっとも緊張する場面である。
コシヒカリは収量もないのに、思いっきり倒伏していて、刈りずらい。私のコンバインには、スイスイデバイダーと言って、倒伏稲専用の掻揚げ装置がついているが、それでも、うまく刈れない時がある。すべてのテクニックを駆使して刈っている最近である。
明日、ザウルスで、日記を送って、中村君に更新してもらおうと思っている。うまくいくか楽しみである。


1997年9月11日

パワーザウルスが、ようやくエクセルのデータを読めるようになった。95のバージョンが、微妙に古かったのでうまく作動しなかったようだ。あと、普段使っている、コマンドのいくつかが使えないことも分かった。分かってしまえば、あとは知恵を出して、工夫して使えば良い。
アキチカラの10アール当たりの収量が、554キロあった。去年の612キロからすると、かなり落ちたように見えるが、消毒なし、肥料は7割で今年の天候では、悪くない結果だった。値段は、さて置き、栽培では今年のコンセプトは正解だったのでうれしかった。
夕方から、読書感想文を2つ仕上げた。読書だけでも、勉強になるのに、感想文を書くとさらに、良い。今回は、青年塾ではないので、発表はないのだが、サボった分、上甲先生に手渡したくて書いた。今回の図書は「教育力の原点」と「イワンの馬鹿」であるが、どちらもなぜか百姓に合う。
前著は、「焼け石に水でも良いではないか」のコピーで、後著は、毎日のつらい農作業も結局幸せと感じさせてくれる本である。この本、実は「ニンジンから宇昼Lにカウンターをつけてもらったので、勝負だ。ヨーイ、ドンで、0に戻してやるので楽しみ。新しい発見もできるのではないかと思うと、ワクワクする。


1997年9月1日

一日で、我が社の「ほほほの穂」の刈り取りを終了した。ということは、収量が少なかったことを意味する。どうも、今年は「ほほほの穂」は、不調だった。対照的に「加賀ひかり」は普通にあった。この、好不調は、花が咲いて、受粉時の天気が大きく影響しているような気がする。受粉管の伸びる大事な時に、天気が悪いと受粉が思わしくないのかもしれない。ちなみに、コシヒカリの花が咲いたときも天気が悪かった。
とりあえず、穂はあるのだが、もみすり機で、玄米にして、選別機を通ると、ほとんどが、クズの方に出てしまう。おかげで、屑米はたくさんある。その屑米も、ボーダーぎりぎりで落ちるので、品質は悪くないから、なおのこともったいない。我が社の「ほほほの穂」は、選別で落ちないように祈るだけだ。
これで、コンサート以来連続8日間晴れて稲刈りが出来た。仕事は、進んだがもう体力が限界に、達しつつある。そんな時ほど、トラブルがあるのだが、終了間際に、乾燥機が緊急停止し、トラックのタイヤがパンクした。おかげで、1時間延長だった。おまけに、タイムカードの計算を一人忘れていたのもあって、てんやわんやだった。さあ、明日から、アキチカラの刈り取りで、また市街戦だ!





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