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あぐらぐち物語 1997年10月分


1997年10月31日

というわけで、二日酔いで午前中はさぼっていた。一日二日とバザーで休む間がないので、出来るだけ体を休ませるつもりだったが、電話が鳴るは鳴るは、昨日のテレビを見たよという懐かしい人や、お店の問い合わせが相次いだ。しかし、天気がすごく悪いので、来店はほとんどいないのが残念だった。まあ、損得勘定で出たのではないので別にかまわない。
昨日の代理店のみなさんが最近、氷温貯蔵で食味が上がるそうですねと聞いてきたので、我が社はそのような電力を消費する方向ではなくエコロジーを目指しています。原子力や二酸化炭素削減を考えた時にそのような米は時代遅れだと、言ったら感心していた。本当は単に冷蔵庫がないだけなのだが、食味のために原子力発電所の電気を使うくらいなら冷蔵庫は使わないというのは本当だ。


1997年10月30日

いよいよ、「あしたも晴れ」の放送日になってしまった。こんな日には色々と重なるもので、なにやら石川県の企画で我々アグリネットワークからの聞き取り調査があったが、なんとその東京の代理店が私の美大時代の同級生のだんなさんが社長の会社だった。世の中、いったい何がどうなるか分からないと痛感した。おまけに、放送日にお出でたのでホテルで見れると言うオマケ付きで、普段我々が思っていることがビジュアルでも伝わったという稀有な状態だった。
結局、ギリギリまで話をして、テレビ金沢へ行った。スタジオでオーロラビジョンで見るのかと思ったが、社員食堂のテレビをみんなで見た。沢山で見ると、楽しくておお笑いした。ナレーションが、間みちおさんという、スーパーテレビ等に出てくる有名な方で、見た人が全国放送と勘違いするほどだった。内容は、家宝にしても良い位の物で、素晴らしい出来だった。ほとんどの場面で、私がしゃべっていたのにはビックリした。中さんという、デイレクターが不眠不休で仕上げた作品に拍手だった。
そのあと、打ち上げをしたが、裏話やらこぼれ話でおおいに盛り上がった。ところが、お昼の雷でTAがまた壊れてこの日誌は実は、31日に書いている。中村君に修理に持っていってもらったが、来週になってしまうとのこと。中村君が韓国に行くのが3日だからそれではマズイということで、プロバイダーさんに泣き付いたら一度アナログに戻すことにした。ほんと、頼りになる。


1997年10月29日

郵便局へ、料金受取人払いの手続きに行ってきた。おもちの注文書が、ハガキになっていてその料金がコレクトのようになっているものである。よくある、料金後納は条件が厳しくてなかなか出来ないし、我が社のように年間で1000通ほどでさらに、それの数がお客様次第だと郵便局では申請が難しい。ところが、申請は割と簡単だが料金がハガキで70円もする。したがってDMの切手で90円とで注文で少なくとも160円は経費で使ってしまうことになる。
ところが、電話での注文はトラブルが多く、高齢のお客様は注文したことも忘れてしまうのでハガキでの注文に切り替えた。おかげでトラブルはなくなったが、今度はハガキを出したつもりになっている方もいる。誰かに頼んだが、その方が後生大事にカバンに入れていたと言うこともある。とにかく、他人に情報を正確に伝えるということは難しいのである。
祝いもちで25の餅と言って、若い方のための餅があるが、のし書きに本人ではなく、よく親御さんの名前を勘違いして書くこともある。それは、注文する方が本人でない場合にやはり良く生じるので注意している。玄関まで配達して、やれやれと思った瞬間「あっ、これお父さんの名前だわ。」てなことになるのである。
午後に、近くの松任農業高校の先生と女子生徒が、今度の文化祭で我が社のHPと品物を出したいと来られた。さっそく、HPの説明と普段パソコンをどのように利用しているか説明した。農業高校はこれから21世紀に向けて絶対にがんばらねばならない学校だと思う。健闘を祈りたい。


1997年10月28日

大豆を選別するために、フレコンという大きな袋に詰めた。久しぶりに体を動かしたという感じだ。案外、農家は運動不足でよっぽど東京の人の方が運動している。こちらではチョット買い物するにしても車に乗っていくので、ほとんど歩かない。だから、腰が痛くなったりするのだろう。
これも、久しぶりに床屋に行った。最近、ボサボサの頭でいたが、やっぱり30日のテレビ局訪問の後の打ち上げもあるし、バザーでの仕事もあるのであんまりな格好もまずいだろうと思い行ってきた。大体、私はファッションには無頓着で、穴の空いたものを平気で着ているので、バザーに出て来る商品なんて私に言わせれば高級品である。
入水パイプ等に詰めるために、用意してあるボロの中から、良さそうなのは着てしまうくらいで、油断しているとお気に入りのTシャッツが、パイプに突っ込まれていたりする。ということは、ボロと変わらないものを着ているということか。


1997年10月27日

朝から、ぐずついた天気で典型的な北陸の空模様になってしまった。封筒を開いているだけで半日が過ぎて、小作料の支払い伝票を仕上げたら一日が終わってしまった。夜には勉強会があるので、早めに切り上げるが、ようやく机の上がスッキリしてきた。
しかし、封書の中で多いのが、アンケートや調査物、全部で6通あったが、そんなに少ない農家を調査してどうなるのだろうと疑問に思うことしきりである。このアンケートというのは、書いた人は分かると思うが結構、頭と時間を使うのでしんどいのである。質問というのは、相手にイニシアチブが握られていて、そちらの言葉に変換して考えなくてはならないので、いちいち時間がかかる。極力書いているが、中には期限切れもあって悪いことをしたなあというのもある。
今日、いくつかの農協をまわって小作料の支払いの手続きをしたが、なかにはひどい農協もあって、いらっしゃいませの一言もないところがある。通帳を持って立ち尽くしていたが、申し訳なさそうに声をかけてやっとしてもらった。私は、農協批判をあまりしない、数少ない農家だが衰退店の見本のような対応にさすがにガックリした。「ダメだこりゃ!」と、いかりや長助なら言うだろう。
帰り道すがら、自分もあのような態度をしている時はないだろうかと、反省もした。思い当たる節もあるからだが、特に寝起きはあぶないのは、自分でも承知している。最低限の礼儀は保たないと、人事でなくなる。


1997年10月26日

早朝の、もちの配達の後、バザーの品物搬入と値付けを朝から小学校でした。幸い、時間内に出来たので良かった。ヤッパリ品物数は少ないそうです。しかし、収益は伸びているそうで、良いバザーの形になってきたと感じました。
その後、家でごろごろして、青年塾の塾長の上甲先生に、かなり長い手紙を書いた。最近、米の事情もあって落ち込むことが多い時に、大変自分を買ってくれている内容の手紙を頂いた。身分不相応と、思っているがやっぱり元気が出る。実は、何度も読み返してしまうのである。自分を理解してくれる人が、一人でもいることの重大さをかみしめている。それは、また誰かに対して、自分がしなくてはならないことであることも確かである。
最近、めっきり寒くなったが、寒いとお餅は売れるのである。寒さと反比例して、懐は暖かくなる。少し、雪でも降らないかなあ。


1997年10月25日

今日は、農休日。しかし、午後から小学校のバザーの品物搬入と値付けがあって夕方までかかった。明日は、朝からするのだが私の2年生の担当は衣服で結構品数が多いのと、分別が大変で一番時間がかかった。それでも、以前よりも不用品の数は減って来てきているとのことである。みんな、無駄使いはしなくなったということかもしれない。バザーの収益は減るがが良いことだと思う。
そして、やれやれご苦労さんと言って、帰って今晩のもちつきの仕事に戻ろうとしたら、消防のサイレンがなった。当然、一番でポンプ車の運転をしたが、町の一番はずれなのと、夕方のラッシュ時で現場まで大変だった。国道を反対車線やセンターを分けながら走るのは「スピード」という映画のワンシーンのようで、すごく恐い。結局、ボヤで済んだが、やっぱり夕方の火事はヤバイと自分でも思った。


1997年10月24日

ついに、一番新しいトラクターまで壊れてしまった。こういうのは伝染するから恐い。というわけで明日は、夕方のもちつき以外はお休みになってしまった。もういい加減雨が降るでしょう。
あと、やっと小作料の計算が終わった。これで、あとはお金を精算してようやく今年の秋は終わる。それと同時に、お餅の方の段取りも本格化してきて、パンフレットの打ち合わせもあった。それで、なんやかんやと今日はお客様が多かった。特に午前中お出でた、志ネットワークの会員の社長さんは、「日本掃除に学ぶ会」の方なので、まず朝からトイレ掃除から始めた。
最後は、バーコード屋さんが来て、バーコードのセットをして今日は終了だった。そう言えば、昨晩、町長さんの出前トークなるものがあって出席したが、我が町についてあまりにも知らなかったなあと反省した。相変わらず発言したが、結局家の前の街路樹が枯れそうなら、ちょっと自分でやればいいのに役場に電話して水をやらす町民がいる限り良い町にはならないということでは町長さんも我々も考えは同じである。しかし、舌に口内炎が出来て痛いので思うように話せない。デザイナーに言わすと、それぐらいが丁度良いそうである。


1997年10月23日

一日トラクターに乗っていた。本当に暑くてTシャツ一枚で出来る。おそらく、この反動で雨が降り続くのだろう。今日は、トラクターが2台壊れた。谷口さんのマシンの油圧が、また作動しなくて後ろのロータリーの上下が出来なくなってしまった。症状が出たりでなかったりする最もややこしいトラブルである。原因は、中古機にありがちな異物詰まりだが、サビだったりゴミだったりフワフワ漂っているので厄介である。
とりあえず、オイルを交換したが、異物が出たことを祈るしかない。次は、中村君運転の私の老トラクターの燃料パイプ詰まりだった。原因は、燃料タンクのサビである。このマシンは小型のエンジンから無理矢理パワーを絞り出すために、インタークーラーやらターボが付いているので、燃料タンクがシート後部押しやられている。当然、パイプラインも長くなるため、異物が出た場合詰まりやすくなる。このマシン、とにかくトラブルが多い。過渡期のマシンだと言えるが、12年経って使用時間も3000時間に達して愛着もある。なんとか大事に使い続けたい。中村君、壊すなよ!


1997年10月22日

最近、執筆依頼が二つ来た。それも二日続けて来たのには驚いた。最近の米をめぐる状況について書いて下さいと言うことだったが、私の言うことがはたして受け入れられるのか心配だ。ここに載せるから読んでみて下さい。
     大波小波     林 浩陽
私は石川県金沢市近郊の野々市町という町で農業法人を営んでいます。稲作が25ヘクタールと餅加工販売を主に行っています。基本経営理念は「農業を通じて豊かな生活を創造する。」です。特徴は、市街地農業で7アール平均のいわゆる農業不適地での経営ということです。さらに社訓で農業補助事業は受けないということがあります。
このような環境で営農していると、5年後の日本農業を先取りしたような現象が起きます。ですから、最近の大波小波は全て起きてしまった事でまるでタイムマシンに乗っているみたいです。そういう私が思うのは、農業者はもっと先を見て欲しいということです。今は価格低迷や米の在庫が問題になっていますが、このような出来事は当然の事と感じています。一般の国民からすると、お客様の事はそっちのけで、補助事業で税金を使う事のみに走っているように見えるみたいです。本当の大波は日本に農地が無くなることです。日本全体がそのような方向を向いています。有機栽培のように、チッソだけではなく色々な成分があってこそおいしいお米が出来るがごとく住宅もあれば商店もある、そして田んぼもあるのが良いのだという21世紀型の考えが今求められていると思っています。農業経営にしても、法人化して十年経ちましたが、今までの西洋的な経営思想ではなく日本型の志高い経営が求められています。そうしないと国民はどんなに、農業の正当性を述べても納得しないところまで来ています。それが米離れの原因と早く気づくべきです。
      兼業農家も専業農家もありません。農業にたずさわる者すべてが、もっと顔を上げて先を見ましょう。そうすればいかに我々が重要な位置にいるのか分かるはずです。黒船来航で日本が植民地化されなかったのは、当時の武士の志が高かったからと言われます。今その志が問われています。

さて毎日天気が良すぎる位で作業が順調に進んでいる。しかし、腰痛がひどくなってきてトタクターはあんまり乗りたくないなあ。


1997年10月21日

新庁舎構想委員会に昨晩、出席したが皆さん構想という意味が分かっていない方が半分位いらっしゃるみたいで、どうしても事務局側への質問や具体的な建設要件の質問になびいて行ってしまう。前回、まったく発言しなかった青年団の水渕君は私が3回以上発言するようにと言った通り果敢に発言していたが、まったく通じていなかった。
若い人からは、委員同士でもっと創造的な討論をしようと意見が出るのだが、次発言する方が、レジメのミスプリントを指摘したりでまったくシーソーゲームのようだった。コンセプトという考え方が、理解できていないと創造的な討論は難しいと感じた。しかし、そんな中でもあきらめずに語り掛け続けようと思っている。次回は、アイデアスケッチを書いていってやろうと思っている。口で言って分からない方には絵で説明だ。
研修生の谷口さんのトラクターがさっそく油圧系のトラブルだ。私も昼ごろトラクターがパンクして修理してもらった。弟は大忙しの日だった。


1997年10月20日

腰痛で仕事が出来ない。こんな時に限って、天気が無茶苦茶いい。仕方がないので小作料の計算をしているが、やはり集中出来ない。大豆の刈り取りも今日で終わるようで、品質は近年ないほど良いらしいので期待しよう。
今晩も、例の新庁舎構想委員会がある。少し、テンションが下がっているので、うまく発言できるか心配だが、プレハブ役場の話は「しじゅうから花の会」の皆様には、おお受けだった。本当に、野々市でそんな事になったら、おそらく見学者が殺到するだろうとの、お墨付きと、町長の名は永久に歴史に残るだろうとも言われた。


1997年10月19日

朝からの、PTAの行事で一日終わってしまった。学校の環境整備に続き、交通安全教室、そしてバザー用のサツマイモ掘り。ここのサツマイモ掘りで少し腰を痛めてしまった。おかげで、午後は横になって何もしていない。今から、バイクのクラブ員の結婚パーテイーの2次会があるが、大丈夫だろうか。
昨日の、大熊氏の話を聞いていてすごかったのが、彼が老人福祉の問題を取り上げるようになったのは、1970年に精神病棟のルポをしたのがきっかけだったということ。なんと精神病棟に入るのにお酒をがぶ飲みしてアル中を装って入ったが全然怪しまれなかったというところから始まり、ショックだったのが中に「不潔部屋」と称して精神薄弱、痴呆性老人が、垂れ流しで檻に入れられていたということ。
ところが、それが普通の精神病院の状況だったということ。次に老人病院に1987年にルポした時は、毎晩250人中50人がベットに縛られ、26人が独房に、40人が強精神安定剤を投与されていたという事実があった。しかも、ここも普通の病院だったというのだから、日本の福祉に対する考えのひどさに、憤りを感じて今に至っているようである。彼が最後に語ったのは、福祉は国の経済を破綻させない、かえって現在、女性が家族が犠牲になっている部分を、プロに任せることによって労働力がアップするはずだ。だから発想を転換してくれということだった。
現在、彼も半痴呆の親を家族で看ているが、深夜2時から3時にかけて、起きて下の世話をするかしないかは、家族にとっては大問題だということ。それが、自分の時は、日中眠くて仕事にならないのである。この部分を行政が手助けするのが、いかに日本経済に有効かは明らかであるという。我が家も祖母が、痴呆で老人施設に入っているから良いものの、帰ってきた時の家族の負担は大変なものであることは言うまでもない。21世紀に向けての新しい思想が必要な時期が来ているのを強く感じた昨日だった。


1997年10月18日

しじゅうから花の会での「住民が選んだ町の福祉」という映画の上映と、大熊一夫さんというフリージャーナリストの「三流福祉国家日本」の講演会と、懇親会が終わって今書いているのだが、予想どおり冷や汗もんだった。16ミリ映写機が操作を間違ってうまく動かないのである。時間は刻一刻と過ぎていったが、さすがというか借りた図書館の担当者の電話番号を携帯にメモリしてあったので、呼んだところ昼食にいく寸前のところを捕まえることが出来た。
そこでようやく自分のミスに気づき事無きを得た。このフィルム20万円と聞き後で青くなった。それにしても、女性のパワーはすごい。スーパースーパーレデイースが一杯いたという感じだ。内容に関しては明日報告します。今晩は、少し酔っているので書けそうにありません。と言って、だいぶ書いたか。


1997年10月17日

すごい秋晴れの中、作業が進んでいる。私は、明日行われる「しじゅうから花の会」(6/30参照)の上映会と講演会の手伝いで、16ミリ映写機の係りになっており、今日そのセットに行ってきた。なにぶん、初めての上、2時間なので3本もフィルムがあるのでスムーズに切りかえれるか心配だが、なんとかなるだろう、と思うようにしている。 その後、アグリファンドの20周年記念誌の編集会議が夜ある。予定表が来週まで、ほほ一杯になっていて楽しい限りである。


1997年10月16日

大豆刈り取りも晴天に恵まれてだいぶ進んだ。私といえば、食品衛生責任者講習に行ったり、もちつきをしたり、そしてようやく伝票の山をエベレストから富士山くらいまで崩したところである。ちょっと、作業をしては電話や来客で手が止まるので全然進まない。気が焦るばかりである。
なぜ、そんなに焦っているかというと、今年の不作と価格低迷で期首時の経営計画を見直さなくてはならないからである。現状把握して、後に販売計画を再構築して果たして、経営が成り立つかやってみないことには不安で仕方がない。どんなに口がうまくても、経営がうまくなくては、ただのお調子者になってしまう。どうも、その傾向はあるみたいだが、この難局を乗り切ってこそ真の経営者と言えるのではないかと思っている。
我が社の大豆コンバインであるが、ようやく借金を去年終えて儲けに突入した数少ない機械である。乾燥は、大型扇風機で風乾燥、つまりほったらかしであるが、かえって痛まなくて良い。北陸でしか取れないエンレイという真っ白い大豆で貴重品である。





1997年10月15日

昨晩から朝方にかけて大雨が降って、今日はやっと事務の仕事が出来ると思っていたら見る見る晴れて来て大豆の刈り取りまで出来て、結局あまり出来なかった。
なにやら、10月は野暮用が多くて机に座っている時間が少ない。しかし、もう正月のお餅やらの段取りを考えたいし、小作料の清算をしなくてはならないので、少し焦っている。
3日程前から、向かいの家から小猫の泣き声がするのでたまりかねて、ハシゴを持ち出して探したが見つからず、帰ろうとしたら屋根の間から黒猫の小猫が出て来てそのまま屋根に落ちて下の庭に落ちた。幸い怪我はなかったので、さっそく近所の学童保育の女の子が抱えて行ったが、案の定夕方になって元の庭に返されてしまった。
仕方ないので、去年老衰で死んでしまった私の猫のえさを少しあげて様子を見ることにした。弟いわく「天から降ってきた猫」ということになる。


1997年10月14日

いよいよ、大豆の刈り取りが始まった。私は、ケイカルチームだが、午後になって急に雨が降ってしまい、中止になってしまった。この時期から本当に天気が変わり易い。
昨晩、私たちとFAPSという農業生産のシュミレーションソフトの開発をされている研究者と、久々にあった。ずいぶん、開発が進んでかなりのレベルになっていたが、自分の方と言えばまったく何も出来ていない状態なので焦ってしまった。今年は特に、2回目の田植えが不調だったり、来年の無農薬栽培に向けて真剣に生産の方をシュミレーションしなくてはならない。
そんな最中、中村君がHPの日記の5日分を消してしまう事件が発生した。みんなで、あーでもないこーでもないと考えていたが、ご丁寧にサーバーの方も消してあってどうしようもなかった。しかし、突然「キャッシュに残っているはず」と研究者が言ったと同時に、プロバイダーさんから電話があり「くせになると困りますが、、、」と言うことで、データが残っていて事無きを得た。私も、11月12月分を消しているので人事ではなかった。さっそく、MOにバックアップを取ったのは言うまでもない。


1997年10月13日

パンフレット用の撮影をした。今回のコンセプトは、「林農産は、農業と人生の学校」ということで、人物写真が多く、しかも屋外で晴天で撮りたいというデザイナーの強い意向で、午後から全員が出て撮影にかかった。
しかし、午前中晴れていたのに、午後になると曇って来て「お日様待ち」になってしまった。レデイースは、こんな状態が耐えられないので、やれ早く撮れだの、もうやめようと言うのをなだめて、何度もあきらめかけた。その度に待ち続けた結果、すべてのカットがなんとか撮れた。「念ずれば、花開く」で奇跡に近いような撮影だった。先週の土曜日も見送って、今回を逃すと20日までに延期になるところだった。もう、時間がないので本当に助かった。
左は、お米の商品撮影、右は新入社員中村君と研修生谷口さんの写真である。右の写真はみんなで、太陽が雲の切れ間から出てくるのをひたすら待っている状態である。





1997年10月12日

朝一に地元の農業祭りに、品物を持っていってから富山に、妻と赤峰勝人さんとの座談会に出かけた。農業祭りでは、お米とお餅、焼きかきもち、ガンコ揚げ、おこわ等を販売したが、今回の目的は他にあって、コシヒカリ3合を試食用に付けた。これを、食べると効果絶大で、かなりの比率でリピーターになってくれる。目先の儲けより、長い目が必要だ。
赤峰さんの座談会は20人ほどだったが皆さん、語る語る。普段、このような自然農法のことを語れる機会は少ないからだと思うが、私は大変興味深く聞けた。結構、自然農法をやられている方が多くてびっくりした。だいぶメジャーになってきたという感じをを受けた。私は、まだ中途半端な減農薬であり、少し恥ずかしかったが、赤峰さんは福岡空港で会った私を覚えてくれていて無農薬栽培用の稲の種子を分けてくれることを、再度約束してくれた。
私にすれば、それでもう、うれしくて富山に行った目的は達成されたようなものだった。赤峰さんいわく、「有機とは、太陽だ。」とおっしゃっていた。まさしく、その通り。達人は、とにかくシンプルであった。


1997年10月11日

乾燥機のボロと言って、乾燥中に出るホコリを集めた部屋の掃除をした。すごく埃っぽくて痒い仕事だが、いい加減取ってやらないと腐って来て取れなくなるし、その部屋に機械を入れなくてはならないので急いで片づけた。
このボロは良質な堆肥になるので、近所の有機野菜農家に引き取ってもらっている。しかし、去年の半分しか無かった。やはり不作の影響はありとあらゆる所に出ているようだ。
午前中、テレビ金沢のオープニングのシーンの取材があった。「明日は、晴れ!」と叫ぶシーンだが、なにやら農具やら、お米やらを持って叫んでくれと言われて結構大変だった。それとファイナルインタビューを受けた。何やら、難しいことをいきなり質問してくるのでとまどった。
私自身の天命は、農業のことをみんなに知ってもらう事だと思っているので、この番組取材はがんばった。カメラというのは、まさしく魂を吸い取るが如くエネルギーを消耗するので、午後に我が社のパンフレットの撮影が天候不順で中止になって、ほっとしたのが本音だ。
放送日は、10月30日午後7時から8時のなんとゴールデンタイム、我々は直接テレビ局に乗り込んで見て、それからスタッフとの打ちルしたものだ。学校のデジカメ映像を撮り込んで結構苦労して作った物だ。





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