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あぐらぐち物語 1999年1月分



1999年1月30日

午前中は、なんとなくPTAの原稿依頼や、来客で時間が過ぎた。午後は、生かきもちの配達。夕方は、 今度のJA県連役員との懇談会用の事例発表のために、パワーポイントでプレゼンを作った。アニメー ションとサウンドもなんとか入れた。後は、どうやって会場へこれを持って行くかだ。
なにやら、午後から脱力感がひどい。もしかして、例のインフルエンザではないだろうか。今晩はおと なしく寝るか。


1999年1月29日

昨日は、通称「借金友の会」アグリファンド石川の役員会と、農林金融公庫の異業種交流会があった。 なめて出かけたら、かなり大規模な交流会で、何にも準備していかず、失敗した。講演会も、お酒の 「菊姫」の社長さんのお話もあって、非常に面白かった。菊姫さんでは、お客様向けにCM打っている のではなく、同業者に討って出ているのだそうだ。普通、お酒のような趣向品は、CMで左右されない 。CMを見ているのは、同業者が多いという話は、思わずうなずいてしまった。確かに、我が社でも、 もちのチラシは見るが、電気製品や他の商品のチラシはあんまり見ない。その他、テレビCMをアニメ にしたのは、趣向品が固まる若年層を狙ったとか、どれもなるほどと唸る話だった。そして、お酒とい う農産加工品を売るためのファン創造という考えは、我が社と共通する所も、多くてうれしかった。
その後、5時半から、農協営農担当と経済連営農担当者との懇談会、はっきり言って新年会があったの で、とんぼ返りで帰った。非常にせわしなかったが、楽しかった。
今日は、午前中、会計士さんとの、打ち合わせと、パソコンのネットワークセットアップ見積もりの、 話があった。簡単にシステムを変えると言っても、結構お金がかかるので、びっくりした。今回のネッ トワークも最小限にとどめて、最大の効果を上げようというのだから、頭を絞った。さて、またパソコ ンケーブルとの格闘をせねばならない。本当は、これが一番大変なのである。
午後は、北海道の愛別町の特定農業法人の方々が見学に来られた。10月に、青年塾でうかがった時の 縁であるが、まさに一期一会、どんなふうにつながるか、不思議なものである。


1999年1月27日

昨日、生産組合協議会という会議があった。世の中で、転作だ、なんだと言っているが、農協ごと、地 域ごとに生産組合という組織があって、ここで、農地に何を作付けするか、どれだけ転作するかを、色 々お世話しているのである。今年は、私がもち回りで、村の生産組合長になってしまったので、出かけ て行ったが、絶対に、役員にはならないと心に決めていた。それもむなしく、会長に任命されてしまっ た。委員のうち、専業農家は私一人なので、致し方ないにしろ、PTA会長と消防もやっていて無理だ と言っても聞いてもらえなかった。まあ、農協の事務局のシナリオ通りというわけだった。
そんな訳で、欠席するはずの懇親会も二次会まで出て、昨晩は帰ってきた。どうも、最近宴会続きで、 腹が出てきた。おまけに、ハシゴの練習もサボりっぱなしなので、体がなまって来ている。幸い、風邪 もひかず元気である。仕事も、あんまりせずに、一日、今度の青年塾の出発式の段取りやら、原稿依 頼の校正、農林金融公庫の調査等で終わってしまった。いい加減、仕事がしたいものである。しかし、 明日も、午後から会議と、夜は飲み会がある。また太る。


1999年1月26日

午前中、我が社のプロバイダーさんと、今度の2000年問題の対応について話し合った。つまり、今 使用中の、MS−DOSで動いている販売管理ソフトが使えなくなるということなどである。現在、そ れに使用中の、エプソンPC486SRが、オシャカになってしまう。これでも、買った当時は最新鋭 で、70万円以上もしたし、メモリもハードディスクもガンガン増設して、郵便番号7桁対応も無理矢 理して、延命したが、平成6年3月からだから、5年しか持たなかった。しかも、その2年後には、F MVを購入している。たから、2、3年で買い足している計算になる。
絶対に、パソコン業界の策略にはまっていると思うが、致し方あるまい。しかし、頭を絞りまくって、 長寿命、そして機材も現在のものをなるべく使いまわしする方向でいる。そういう工夫となると、我 が社のプロバイダーさんは、頼りになる。今回の新機種は、オール組み立てタイプで構築となる。こ うなりゃ、最強最速マシンだ。


1999年1月25日

PTAの新年会で、程よく飲んで、最近になくグッスリ寝て、さわやかに目覚めたが、時計を見てびっ くり、8時45分。我が目を疑ったが、間違いない。2時間も寝過ごしてしまった。F18Aホーネッ トでカタパルト発進。なんとか電車に乗ったが、30分の遅刻になってしまった。もう、この時点で、 色んなものを忘れている事に気づくが、後の祭り。富士市では、みんな首を長くして待っていてくれた が、やはり話し合いの時間が足りなかった。大反省である。青年塾に行くために力を使い果たしてしま っていることが原因だが、とにかく、現場も見たし、ある程度のアイデアも出たので、これからまとめ ねばならない。
その後、塾生の同期の石川君と芦ノ湖の研修場所を下見して、彼の町田の自宅に泊めてもらった。しか し、彼の家族も熱いので、志高い経営を唱える息子と、実際の経営を語る両親との、大討論大会になっ て、結局寝たのが、午前2時半。まさしく、今の日本の会社経営が抱える問題の縮図があった。私も、 、なんとか、そのギャップを埋めたいと思っている一人である。


1999年1月23日

三宅君が、研修を終え岡山県に帰っていった。すごく真面目にやってくれて感謝している。これからは 、彼の分、仕事が増えるので遊んでばかりもいられなくなった。さっそく、久しぶり、もしかしたら2 年ぶりくらいで、かきもちをついた。弟も、舞鶴支部の方へ遊びに行ってしまったので、吊る作業や、 配達、おまけに店番(藤井嬢も弟の結婚式でお休み)まであって、いきなり大変だった。
そして今から、PTAの新年会。「パパママ先生、楽しく遊ぼうPTAバージョン2」を考えねばなら ない。最近、企画を考えることが多くて、頭が煮詰まっている。明日も、朝から、青年塾の出発式の打 ち合わせで、芦ノ湖まで行く。脳が硬くなったのか、アイデアが最近貧困である。そろそろ、トラクタ ーに乗りたくなってきた。そうすると、不思議と色々なアイデアが思い付くのである。


1999年1月22日

昨晩の、三宅君ご苦労様パーテイーin第7ギョウザは、すごかった。合計165個のギョウザを12名 で食べたが、ビール、サラダ、ライス、トン汁とフルセットで食べて、しかも、うち2名が私の子供だ ったので、死にそうになった。最後は、みんな青い顔をして食べていた。三宅君も、はしが止まってい たので、「研修だぞ、食べなさい」と言ったら中村君が「食い倒れ研修や」と突っ込みを入れていた。 まさしく、最後にふさわしい厳しい研修内容だった。さぞ、故郷に帰っても役に立つであろう。
第7ギョウザは、私の美大時代に良く行った店で、非常に思い出深い。そして、ただの思い出ではなく 、この店の歩んできた様がまさしく、我々も非常に参考になるマーケッテングそのものである点が特筆 される。かれこれ20年前、初めて行った店は、間口2間ほどの汚いただのギョウザ屋さんであった (失礼)。カウンターに猫がいたのを覚えているし、時々3日間ほど、お休みになることがあった。ど うも、保健所からのお達しらしいが、そんなこと我々貧乏学生には無関係で、とにかく安いうまい量が あるこの店が閉まることは死活問題に直結したのである。そのうち、少しづつ店が大きくなり、10年 ほど前に行った時は、グルメマップに載って観光客も結構来ていてびっくりした。そして、その辺りか ら、冷凍ギョウザの宅配サービスをしているのを知った。それから、我が家も定期的に利用している。 学生は普通、4年程度で、その土地を離れるが、しっかりとここのギョウザの味を覚えていて、だれか が「マズイ」とか「大したことない」などという雑音を出しても、「思い出」という強力な調味料で、素 晴らしい味に変えてしまうのである。私も、その一人で、あれを一口食べると鮮明にあの頃を思い出し て涙なくして食べれないのである。
そして、数年前、ついに4階建てのビルが建って今日に至っている。当時から、ギョウザ、ライス、ト ン汁の簡単なメニューを通して、今がある様は、ただひたすらに一つのことに賭けた力と真実を感じる 。我が社も、ビルとは言わないが、あのように長い間お客様に愛される店でありたいと思いながら、パ ンパンにふくれた腹をかかえながら帰って来た。


1999年1月21日

農作業日誌を集計した。10アールあたりの、水稲の労働時間が、27.2時間と前年比7.4%アッ プであった。数年前、22時間を最後にジワジワとアップして来ている。これが、コストアップの原因 の一つでもある。もっと、人を使わず、自分が働けば、この数字も減るが、すると他の事をすべてやめ なくてはならなくなり、きっと販売の方が落ち込むことになるだろうし難しいところである。しかも、 有機肥料使用や、土作り資材散布、除草剤の使用減をすればするほど、労働時間は増えて行く。しかし 、労働人数が増えてもいるので、一人当たりの負担は、以前より少ないはずである。
午後は、小学校のワールドクラブというサークルで、子供達の前でバングラデイシュの話をしに出かけ た。最近、「学級崩壊」という問題が取りざたされているが、身をもって体験してみると、先生の大変 さが良く分かる。なんとか、面白い話をして集中させるのに一苦労であった。勉強を「やらされ」続け た結果、目的意識が希薄になってきているのであろう。今回の場合は、まだまだ序の口で普段、先生方 がどれだけ苦労されているかを、保護者は知る必要があると感じた。PTA会長としては、考えることの 多い出来事であった。
夜は、三宅君さよならパーティーで、第7ギョウザという、ギョウザ屋さんに行く。石川県で三宅君が 食べてない有名店は、唯一ここだけになってしまったので、非常に遠いが予約していくことにした。こ れで、パーフェクトだ。


1999年1月20日

ようやく、机の上も、スッキリしてきた。年賀状も、やっと返事を書くことができた。私としては、1 月中は、まだOKと思っている。
ようやく、自分にとっては今が、正月みたいなもので、ひたすらエネルギーを貯めている。今度は、出 発式へ向けてスパートしなくてはならない。


1999年1月19日

全国農業青年経営者研究集会という、我々石川農業青年会議所主催の、全国大会が昨日と今日あった。 「自立」というテーマで、まずプレゼンテーションを7名の方にやってもらい、次はマンマデイキテル の公開録音をゲストを交えて行った。プレゼンは、今回は特に初心者にやってもらったが、プレゼンに は、程遠いものだった。しかし、一度は経験すると、ドンドンうまくなるものであるので、今回の参加 者は、冷や汗をかいたかもしれないが、ラッキーだったと思う。
そして今日は、「自立」についての討論会をした。私は、その司会をしたのだが、予想通り?農業者の 口は重くて、なかなか討論にはならず、重い会になってしまった。「自立」については農業者も良く考 えているが、その表現方法に問題があると思う。
もう、これで疲れ果ててしまって、何もする気力がなくなってしまった。私の意向もあるが、普通この 手の討論会には、なぜか最初にもう結論が用意されている場合が多い。大体「決議文」と称してすでに 印刷されているほどである。そんな、ヤラセでなく、正真正銘の、出たとこ勝負だったので、異常に気 力を使ってしまったせいである。最後に、皆さん、自らの能力の無さを反省しつつ重い気持ちを引きず っての、帰途についたことが、この会の唯一の収穫だったと思う。もちろん、私もその一人である。


1999年1月17日

久しぶりの日曜日、遅くまで寝て、少し事務所の整理。午後は、常光女史の所で、お茶会があるという ので、バングラデイシュの報告も兼ねて出かけて、夕方からは、また家でゴロゴロしていた。バングラ デイシュ用の紙飛行機の余りを、子供達と組んだり、「ウノ」をやったりした。どうも、最近子供達の 間で、このカードゲームがはやっているらしくて、頻繁にやらされる。アンチファミコン派の私として は、好都合だが、誰に似たのか、熱くなって喧嘩腰になるのは、弱ったものである。
夕食は、年末に青年塾ゆかりのある方から、いただいた「松坂牛」を、ようやく賞味できた。大体、桐 箱に入っていた物で、我が家初の快挙である。しかも、お餅を贈って化けたものであるから、母親から 、初めて青年塾を認められた?。どうも、志も、我が家では、「寸志」に変らないと理解されないらし い。


1999年1月16日

午前中、祖母が、老人保険施設から、一時帰宅のため、迎えに行った。その時、車椅子を乗用車に載せ る時、腰がギクッとなってしまった。朝の、体の硬いうちに油断して持ってしまった。不覚である。軽 い内に、養生して治さねばならない。
午後は、PTAで救命法の講習を行った。20名程の参加で、マウスツーマウス、心臓マッサージとや ったが、消防団の野郎ばかりの講習でなく、にぎやかなこと。おかげで、45分以上超過して終了。そ んな、シュチエーションに出会わないのがベストだが、「いのち」について少しでも考える機会になれ ば幸いである。


1991年1月15日

朝起きて、お餅の配達一件、そしてその後、「左儀長」と呼ばれる、正月用品を燃やし、その灰でお餅 を焼くという村の行事があって、火を使うので消防団の私も立ち会い、餅を食べた。そして、家でごろ ごろしていたら、突然、地元FMより電話。「ゲッ!生出演を忘れていた!」そうなのである、12時 からの、生放送でお餅の話をしてくれと頼まれていたのであるが、バングラボケか、すっかり忘れてい た。ただちに、F15Jイーグルに火を入れスクランブル発進、なんとか間に合った、セーフ。普段と 違う、アナウンサーの方だったが、軽妙な語り口突っ込みで、すごく話しやすかった。おかげで、時間 延長で話をしてしまった。自分の番組と違い気楽なのが良かったのかもしれない。
午後は、次男のランドセルを買いに出かけたが、妻は、この手の長年使う物には、超うるさい。なかな か決まらないうえに、祭日で異常に人が多くて、マイッてしまった。結局、今日は決まらず帰ってきた 。ヤレヤレ。
夕方、ようやく、バングラデイシュレポートを完成させ、電子メールにて送信して終了。これで、枕を 高くして寝れる。


1991年1月14日

レポートもかなり書けた。しかし、午後から、石川青年農業会議所主催の全国大会のための打ち合わせ 会で、全部つぶれてしまった。いい加減締め切りが近付いてきて焦る。今回は、「自立」というテーマ で、プレゼンと討論会が予定されている。討論会の司会は私なので、かなりの重責である。いつも、農 業者の大会では、討論になかなかならないので、色々と工夫をしてある。ほとんどが、青年塾での方法 をとっているが、果たしてうまくいくだろうか心配である。


1991年1月13日

昨晩、消防で消火栓の除雪で出動があって、その後飲んだ結果、朝、しんどくて起きれなかった。まだ まだ体調は、戻っていないようである。現在、青年塾の出発式の準備、農業青年会議の全国大会の準備 、バングラデイシュのレポートが、懸案として溜まっていて、なぜか毎日夕方、会議があってフルに仕 事が出来ないので、バングラレポートは、二日しか書けてない。


1991年1月12日

ほとんど、堪忍してくれモードである。朝から、必死になって机に向かっているが、なかなか、先が見 えない。おまけに、ラジオの打ち合わせが午後あって、出かけたので、半日つぶれてしまった。来年度 のラジオをどうしようかという話合いもあったが、来年は見送ることになった。後半、やはり息切れし てしまい、陳腐な放送が続いたような気がする。もっと、テーマについて深く調査研究する余裕が必要 である。何は、ともあれ、ひとつの番組を制作する、難しさ、楽しさを味わった1年だった。
新年早々、ビックネームから、クレームが来た。あの芝寿司の会長様から、お鏡が割れたというクレー ムだが、こともあろうに、親族一同が揃った前で、お鏡がパリパリと割れたのである。本来、お鏡は、 素肌で飾る物で、それを我が社が、多くの理由でビニルで包んでいて、それを外すと割れるという事が 、どうしても納得していだだけなくて、最後は、割れたお鏡と写真を送り返してこられた。また、具合 が悪いことに、バングラに行っている間の事で、対処としては、かなり遅れてしまった。とにかく、会 って、もらおうと電話をしたが、ケンモホロロで、こうなればと思い、割れたお鏡の代金と送料、自分 の考えと、対応策を書いて直接出向いた。緊張して、ベルを押すと、直接来られたが、明らかに不快感 を示しておいでだが、自分も多くのクレームを受けて来られたこと、その時の対処法等々を、熱く語ら れた。自分の対応が果たして正しかったかは、分からないが、行って良かったと本当に思った。多くの 修羅場をくぐりぬけてきた迫力は、求めても、なかなか会えるものではない。
しかし、バングラでは、なんともなかったお腹の調子が悪い。国内での、ストレスは、想像以上らしい。


1999年1月11日

午前中、寝ていて、午後事務所に来ると、すごい書類の山で、めまいがした。おまけに、帰ってきたと 知っている人達が、ガンガン電話をして来て、仕事にならない。
しかし、体の奥底に、何かが残っている気がする。しかし、バングラでは、カレーがうまくて調子が良かったが、半分以上の人間が、調子を壊していたことを思うと、私は、アジア向きなのかもしれない。
バングラでザウルスを、使って書いてきた日記なので、少し校正が必要だが、とりあえず載せてみました。いずれ、写真も追加したいと思う。


1999年1月10日

24時間、飛行機と電車を乗り継いで、ようやく日本に帰ってきた。久しぶりのお風呂は、気持ち良かった。体中、カレーの匂いがする気がする。


1999年1月9日

午前中、バングラデイシュの市場と、港に行ったが、すごい人と熱気ですごかった。もう、言葉や口では、言い表せないほでである。市場では、やぎの頭が売っていたり、やぎの内臓が、食道から下が、まとめてぶら下げてあったりで、オカルト映画を見ているような気分だった。
午後は、博物館へ行って、バングラデイシュの歴史を見たが、独立戦争の時の、悲惨さが良く分かった。いかに、戦争が無駄なものかが、無力感を持って感じた。
それから、買い物をしたが、ガイドのマスードさんがびっくりしていたが、我々のグループは、あまり 買い物に対して情熱を燃やさない、珍しい日本人らしい。世界中を買いあさっているのが、日本人なんだろうなと思った。
その後、中華レストラン?で妙な焼肉を食べて、深夜にダッカ空港を発った。しかし、何度行っても、ダッカ空港は好きになれない雰囲気であった。バングラデイシュで、唯一嫌いな場所であった。


1999年1月8日

バードと呼ばれる地域自立支援センターに泊まったが、フルボリュ-ムで一晩中騒いでいるグループがあった.朝、マスードさんが何度も注竟したのに聞かなかったそうである.それは、彼らが国会議員や上流階級の子弟だからと言うのである.しかし、彼は、これからのバングラディシュの未来の為には、そんなような事ではいけないと朝行って説いたのである。そして,しきりに謝っていた.そんな彼のような人がいる事がうれしかった。
シヤルポンビハーラ、ルポボンムラ.イ夕コラムラ、の仏教寺院,そしてインパール作戦で亡くなった人の墓に行って、大渋滞の中工ンゼルに帰って来た。


1999年1月7日

朝4時に起きてラジャプ一ルハイスクールへ行った.昼頃着き校長の長い話の後、寸劇、そしてデイベイトNG0は必要かをしたが必要ないが優姓に見えたが、校長の圧カであるが勝ってしまった、その後の交流はパニックになってしまい.私の飛行機も他の人のものも取られたリ、破壊されてしまい悲しかった。その時デイベイトの学生が来て訪が出未てよりやく気を取り直した.素晴しい教育を受けているの人もいる事は.事実だ。
人に物を与えるむずかしさを知ったー日であった


1999年1月6日

井戸掘りにチョツトルノヤッパラに来た。紙飛行機を持って来て飛ばしたがよく飛んで好評だった。タ方までかかって.ようやく水が出た.85O人に、まだ2つの井戸はまったく足りないが,一生忘れないと感謝されてしまった。水の大切さをひしひしと感じた。


1999年1月5日

朝エンゼルの前田さんから、自立のプログラムを間いた。障害は、知っていると思っていても知らないと言う事。先進国は、過程を、案外知っていると言う事を知る必要がある。 年間予算6干万円孤児が65名程スタッフ7O名.自立の目的のある子しかいられない と言うはさすがと思った。その後、農業研修センターヘ行ったが、予想に反して有機栽培低農薬の自主独立経営で非常に好感を持った.国が介入しなかったのが幸いしたのと思うo午後は、草取りを手伝い夜は、エンゼルの子達と交流会があって彼らと寄宿舎で一緒に泪まった, すごく勉強しているのには、おどろいた。深夜まで話をした。夕食、鶏を自分達で、お祈りをしてナイフで首を切って解体した。初めてだったが、貴重な体験をした。


1999年1月4日

朝8時にホテル出発,うわさの関空へはるかで到着。快晴の中シンガポール航空で離陵。なんと満席であった。力ゼの方は、だいぶ全くなったが、まだまだ自ちょうしている。シンガポール時間17:45着で2時間ほど余裕があったので、シンガポールカクテルを飲んでいたら、集合場所をまちがえ.大変な距離を走った.リきなリのミスで大汗をかいた。
ダッカ行きの飛行機はまったく、雰囲気が達ってびっくり、もうイスラム社会に突入という感じがした。ぐったりしてダッ力に到着とにかく,けむいのとモヤがかかった状態で、後で聞くとレンガを焼く石炭のにおいと分った.空港をやっと出るとガラスにヘばりついた顔顔顔、そして乞昼の群れにびっくりしながら.クラクションとハイビームで走るバスで工ンゼル協会に到着。深夜にも関わらず多くの子供達の出迎えで、ようやく長い一日が終わった。


1999年1月3日

朝ギりギリまでインターネットでバングラの農業を調べたが見つからず困った。やっと調べて小松駅より出発ところが禁煙席でなくただでものどが痛いのに大変だった。
大阪のホテルで事前研修をしたが少ない情報でも大人数でやれば形になった。バリさんのなげ貧しくなつたかのしポ一トは、悲しいまでに富をうばわれた歴史をいやと言うほど知ることになった。モスリンと言うまぼろしの布の職人の指さえも切って何も造れないようにしたやり方は.悲惨である。そして今、0DAと名の特定の企業個人がうるおう構図が出来ていると言う、それだけにNG0の使命は重要である。


1999年1月2日

今日は、なんとか起きて、明日のバングラ行きの準備に走り回っているが、情報が乏しいので、一体何 を持って行けば良いか、分からず、かなり迷った挙げ句の、準備になってもう、夜の7時近くなのに、 まだ、詰め終わっていない。
なにやら、向こうの子供達との交流で、凧上げや紙飛行機を準備して来て下さいという話で、紙飛行機 のキットを買って来たが、果たしてこれで良いのかサッパリ分からない。まあ、分からない所に行くの が、今回の目的の一つでもあるので、それはそれで良しとしよう。私は、実は高校まで大の飛行機マニ アで、この紙飛行機も得意分野の一つである。シンプルだけど、思いもよらない飛行性能で、うまく出 来れば、感動を与えることが出来るかもしれない。


1999年1月1日

一年の計は元旦にあり。そして正月と言う字は、一に止まる日で、もう一度基本に帰る意味があるそう である。しかし、そんな意味からすると、最悪のスタートだった。朝起きると、強烈に喉が痛い。これ は、危ないと判断して、風邪薬を飲んで、寝ていて起きたらもう夕方になっていた。こんな状態で元旦 を過ごすのはいやなので、なんとか起きて、まだ残っていた請求書を書いて、明日のバングラ行きの荷 物を少し用意した。
バングラ行きがあったので、自分自身では、調整してやってきたつもりだが、やはり、年末は、すべて の力を出しきっているので、そんなに甘くは無かった。今晩、気力で治さないと、慣れない海外、それ もバングラデイッシュ、大変なことになる。今から、北海道研修でお世話になった、水口さんからいただ いた、ジンギスカン鍋をいただいて精力を養なおう。ちなみに、これには、専用鉄板まで付いていた。





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