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あぐらぐち物語 1999年3月分



1999年3月29日


風邪をひいてしまった。風邪だけは、ひかないとおもっていたのだが、よりによって腰が痛いときに、 ひいてしまった。昨日は、一日、寝ていたが、今日は、苗だしと種まきなので、歩伏前進で出勤した。
さらに、ホームページからの、かきもちの注文で、行き違いがあって、1ヶ月半ぶりに、どうなってい るんですか?というクレームで、真っ青になってしまった。返信メールを送ってそのままにしておいた のだが、何度も問い合わせるべきだった。わずか、1000円の商品だが、私にとっては重大事件であ る。


1999年3月27日


午前中、荒天でお休み。まさしく「晴耕雨読」。最近、掲示板の書きこみにはまっていて、http://w3. mtci.ne.jp/~masasan/index.htmlの全国農業青年協議会の会長さんのホームページや、ぶった農産の掲 示板に、せっせと書きこんでいる。おかげで、午前中、一杯それで終わってしまった。
お昼に、カイロに行って来たがついに、牙をむいた感じで、痛くて死んでしまった。筋肉の硬直を取る とかで、尖ったものでグリグリ。もう、これが痛いのなんの。おかげで、帰ってから、動けなかった。
午後は、現場のボーイズはあぜ塗りや、種の芽出し準備。社長があてにならないので、良く働いてくれ る。
夕方、決算の最終打ち合わせがあったが、売上6800万円、56万円の黒字だった。売上で、6%ア ップだったが、このご時世で、アップは奇跡的なものである。相変わらず、米作りが下手で、収量が少 ないのに、良くもまあ黒字だったと自我自賛している。56万円と言えば、ゆで卵の殻の下にある、薄 皮のようなものである。ちなみに前期は、27万円黒字だったので、なんと利益で200%なのである 。これだけ見ると、すごい。しかし、環境と経営と志の絶妙なバランスである。


1999年3月26日


種まきをした。今年は、ぶった農産を真似て、空箱から一気に種まきをする新システムに、なあーんも 専務が苦労して作ったので、うまく行くかどうか心配だったけど、順調過ぎる位で終了。去年までは、 あらかじめ、苗床用の土を1万2千箱詰めてから、その上に種まきをしていた。その分、機械がコンパ クトで済む利点があったのだが、詰める手間はやはり大きく、今回、神経は使ったが、大幅な時間短縮 になった。めでたしめでたしである。


1999年3月25日


午前中、次男の卒園式があった。なにやら、長いお別れの言葉を言うのが大変だったらしくて、疲れ果 てて帰ってきた。グズグズ言う、次男をなだめて、パチリ。お昼だったので、顔に影が出来てしまった が、自分の顔をここに載せるのはもしかして初めて?
午後は、トラクターで春田起こし。役立たずの社長だが、トラクターに乗せれば、トップガン状態で、 たくさん作業が出来た。いやあ、やっぱり、田んぼがいい。





1999年3月24日


午前中は、種まきの段取り。ジャグジーのような泡風呂で、種の芽を少し出してあげる作業をした。昔 は、お風呂でやったのだが、なぜかすごくヌカ臭いので、嫌いだった記憶がある。この泡風呂も「なあ んも専務」のお手製で、結構、雰囲気が出るのだが、それでも、少しムラになるので、気を使う。
午後は、ついにトラクターで田起こしを開始した。腰は痛いが、マシンに乗れば、水を得た魚状態で、 バリバリ作業をした。天気も良くて、久しぶりに爽快な気分だった。


1999年3月23日


なんとか、ハウスにポリを張った。ギックリ腰がまだ治ってないのに、無理して出社した、こんな日に 限って、スタッフは風邪で休むは、花粉症で病院に行くはで、全滅状態。それでも、終了してホッとし た。昨日は、完全にスイッチを切って、物体X状態で寝ていた。思考回路を切るというのも難しい技だ が、色々考えて怪我が治るなら、こんなに苦しまないで済む。どうしても、考えてしまう時は、「治れ えーー、治れーー」と気を腰に送り込んでいる。
今日、お昼に、最終兵器「カイロプラテック」に行ってきた。数年前に、長い間の慢性ギックリ腰から 、抜け出たのも、このおかげだが、最終兵器だけに、これに行って治らなければ、ガン告知を受けるよ うなもので、出来れば行きたくなかった。しかも、行くのに遠いので、時間的に大変なのである。よほ どの覚悟がいる。まだ、結論は出ないが、かなり良くなった気がする。


1999年3月21日


消防の防火訓練を休んだ。今までとは、違う腰の方が、痛い。もう、情けないを通り越して、無感動状 態。スイッチを切った状態で、ひたすら休んでいる。
ハウスの方も、張り切ってないところは、見るも無残な状態。今日は、幸いというか、雨が降って、ど っちにしても、何も出来ない。果たして、春を迎えられるのであろうか。
椿祭りの方は、順調に売れているみたいである。なんと言っても、田んぼの隅に生えていた菜の花や、 菜っ葉を使った、「おこわ」「おくもじ」そして「手作り味噌」「揚げかきもち」「焼きかきもち」と ある意味では、究極の一品が並んでいる。昔は、農家であれば、いつでも手に入ったものだが、今は、 スーパーでも売っていないものばかりである。こんなものをいつも食べている自分は、なんと贅沢な食 生活なんだろうと思う。


1999年3月20日


朝から、椿祭りで、納品に張りきって行ったら、また腰が痛くなってしまった。それにも関わらず、今 から、3年前位に行っていた、商業系の研修会の同窓会に出かけなくてはならない。本来なら、天気も 悪く、家でゆっくりしたいところだが、因果なもので、良い子ぶって、幹事を引き受けたものだから、 この、始末である。しかも、明日は、消防の春の火災予防で、出動しなくてはならない。
体の限界サインは、とっくに出ているにも関わらず、動かなければならない状態はつらい。


1999年3月19日


配達へ行ったり、事務所でなんとなく一日が過ぎてしまった。明日は、野々市町の椿祭りというイベン トで我が社の、かきもちや赤飯、その他の商品を販売するために、現場では一日中準備にかかった。
あんまり、膝が痛いので、レントゲンを撮ったが、幸いに皿は割れてはいなかった。それにしても痛い。
しかも、昨日より強風で、ハウスのポリがさらに千切れてしまって、がっくり。千切れたポリが風で飛 んで道路まで行かないか心配である。


1999年3月18日


朝から、ハウスを張ったが、強風でままならず、おまけに、私が卒業式に参列しなくてはならず、結局 13棟中8棟しか張れなかった。うまくいけば、全部張れたのに残念。
おまけに、卒業式の前に仕事をしていたら、開始時間を間違えていて、学校から連絡があって、初めて その事に気づいた。真っ青になって駆けつけたら、御歴々は、すべて着席、6年生の入場の場面だった 。本来、ホスト側として、来賓の皆様の御相手をしなくてはならないのに、失態であった。そして、お 祝いの言葉の自分の番になり、なんとか、パネルを使用して行ったが、一様にみんなビックリして声も 出なかったようだ。まさか、拍手するわけにもいかないので、反応が良く分からず、終わってしまった 。それにしても、卒業生のお別れの歌は、感動的だった。キロロの「未来へ」?だったが、素晴らしい アレンジで、良かった。出席のお母さん達は、もう涙と鼻水で訳がわからなくなっていた。
そして、今から、御通夜に、学校でまとまって行く。やっぱり、ブルーだなこれは。


1999年3月17日


こけてしまった。しかも、膝を痛打してしまった。泣き面に蜂とは、このことだ。苗のハウスにポリを 張っていて、風が強くて、ポリがまくれたので、あわてて走ったら、ポリを押さえるバンドに引っかか って転倒してしまった。いつもなら、バランスを崩すくらいなのだが、情けないことにまだ腰が痛くて 二の足も引っ掛けてしまった。しかも、ぶつけた所が、バンドをかけるための突起部分だった。
昨晩の放送は、最後にふさわしく、良い出来だったと思う。その後の、打ち上げも盛り上がったが、私 と妻は、一次会で帰ってきた。また、そんな機会も巡ってくるだろう。
明日は、小学校の卒業式なので、あいさつの練習もしなくてはならない。パネルは、完成したので、あ とは練習あるのみである。しかし、卒業生の母親が、今日亡くなったという知らせが入った。卒業式の 後、お通夜に行くが、卒業式の日に、重なるなんて、悲しすぎる思い出である。若い人の、お葬式に、 行くのは、気が重いが、これも人生である。天国に召されたことを祈りたい。


1999年3月16日


みんなは、あぜ塗り、私は店番である。わが社の、スーパー事務員兼販売担当の、藤井嬢が風邪でダウ ン、慣れないレジを相手に奮闘している。案外、こうやっていると、ありがたいことにお客様って結構 いらっしゃるなあと感じた。売上があるんだから、当たり前のことだけど、実際に一日いると実感がわ く。たまには、店番も良しだな。
昨晩、深夜に、どうしても受け取らねばならないメールがあって、パソコンのスイッチを入れたら、な にやら訳の分からないエラーが出て、うんともすんとも動かない。さんざん、ctrプラスlaltプラスdel を押して、やっとセーフモードとやらの、大きな字で見やすい画面にはなったが、通信はだめ、プリン ターもだめ、やばいので、バックアップをとろうにも、MOもだめで、お手上げになってしまった。な んとか、FMVの方で、作業は出来たが、ネットワークの構築者にSOSを出した。そしたら、あら不 思議、その方が触っただけで、直ってしまった。どうも、私からは、電子機器には有害な電波が出てい るようである。今まで、購入したパソコンでまともに作動したものはひとつもない。
今晩、我々の仲間で、毎週放送したFM番組収録の最終回がある。思い出せば、本当に大変だったが、 知らず知らずに、しゃべりのパワーはついたように思う。しみじみ、タレントさんというのは、コンス タントに力を発揮しているのは、すごいことだと思う。農繁期は、死ぬほどしんどかったこともあるが 、そんな時は、あんまりうまく行ったとは言えなかった。その逆に、海辺のコンサートの後の、トーク は、自分で聞いても、キレがあった。まあ、最後だから、張り切っていこうか。


1999年3月15日


せっかく、なんとか仕事に出るようになったが、雨が降るわ、種子消毒の資材が届かないわで、全然仕 事が進まない。結局、先週のツケが回っているということか。
結局、夕方、足りない種子と種子消毒の薬が到着。無農薬の種は、超酸性水で消毒するが、やはり、病 気が怖いので、薬品を使用した。去年、「バカ苗病」が、大量に発生して、収量を大幅に落としたのが 効いている。あと、やっぱり、ギックリ腰で、大量処理向けの超酸性水のシステムを組めなかったのも 、原因だ。悔しいが仕方がない。
卒業式が、18日にあるので、その会長挨拶用に、大きな「夢」と書いたパネルを用意した。今回のテ ーマが「未来」なので、卒業生に思い出に残るパフォーマンスと思い作った。挨拶にパネルを用意する ことさえ、珍しいのだが、これからの21世紀、発想の転換も要求されているということも、表したい 。しかし、15年ぶりに、パステルを使用して、フィキサーチーフという、色を固定するスプレーを使 用した。懐かしかった。筆を置いて、十余年、まさか、こんな形でまた、使うとは思ってもいなかった。


1999年3月14日


「井堀り」は、きつかった。特に、今年は、台風の水害の時にたまったのか、用水の一部が、ひどく埋 まっていて、手間取ってしまい、さらにハードだった。なんとか、済まし、今度は子供達を連れて近所 の大型ショッピングセンターにある、ワーナーマイカルシネマへ、「バグズライフ」というCGの映画 を見に行った。ここは、8つも映画館が、あって同時に多くの映画を上映している。映画は、とても、 面白かったが、どうもこのアメリカ資本の映画館は、飲み物、食べ物をひとつ食すにも、多大なゴミが 出るのが気に食わない。私も、つい子供の要求に負け、購入したが、やっぱりでかいポップコーンとジ ュースの容器が、残った。悔しいので、持ちかえって、何かに使えないか思案中である。
そのあと、家族風呂へ行って、さあーメシでも食べようと思ったら、妻が急な腹痛。映画館で食べたポ ップコーンか、はたまた井堀りの休憩時に食べた寿司が原因かは、定かではないが、現在、休憩中であ る。その、すきに、日記の更新と青年塾の、ファックスニュースの段取りをしている。腹も、減ったし どうしようかなあ。


1999年3月13日


昨晩は、なんとか盛り上がって良かった。しかし、午前中はダウンしていた。午後は、藤井嬢が休みな ので、中村君と店番。でも、30キロ玄米のお客様だと、お手上げの状態である。
明日は、朝から、「井堀り」と言って、用水の泥上げをする。かと言ってこの状態では、いかんともし がたいが、生産組合長であるからには、出席だけでもしなくては、ならない。
今晩、近所へ整体の、出前があると聞き、お邪魔することになっている。ワラをすがる気持ちとはこの ことだろうか。腰痛というのは、痛みもさることながら、暗い気持ちになることが最大のデメリットで ある。


1999年3月12日


相変わらずの状態だが、少しづつ良くなってきている。しかし、今晩、PTAの新旧役員会と称して、 懇親会がある。普段のどうでも良い懇親会と違い、今日は非常に重要な会である。新役員は、右も左も 分からない、不安な状態で新年度を迎えるわけであるから、少しでも気持ちを和んでもらう必要もある し、どの部門に所属してもらうかも、腹づもりをしてもらわねばならない。旧役員には、ご苦労様の意 味もあって、精一杯のことはしてあげたい。
しかしながら、この状態であるから、どうにもならないが、歩伏前進でも出席しなくてはならない。


1999年3月11日


同じく、ギックリ腰で、事務所に少しと、大半を寝て過ごす。体調が、悪いときは、精神的にも落ち込 みやすい。こんな時は、神様が、「休め!」と言っていると考えて、横になっている。


1999年3月10日


ギックリ腰で、一日の大半を寝て過ごす。本を読んだりもしたが、気が落ちてるので、集中できない。 とにかく、情けない。今から、整体に行く。これで、すっきり治ったためしはないが、とにかく、ボー としているのも、体に悪いので行って見よう。
現場では、稲の種子を5キロごとの網袋に入れて、浸水の準備が進んでいる。これを、2週間ほど、水 に入れてから、温度と酸素を与えて、芽を出させるのである。寒冷地ならではの方法である。


1999年3月9日


ようやく、あぜ塗りに精を出せると思ったら、午前中に、腰がギクッとなってしまって、リタイヤ。こ このところ、無理をしたせいかもしれない。まだ、歩けるが無理はできないので、事務仕事に戻った。 もう、情けないやら悔しいやら。今晩は、こんな状態で、ラジオの収録がある。まいった。


1999年3月8日


日曜日は、午前中、苗の計算と店番。午後は、消防の点検日。点検日というのは、火事があろうがなか ろうが、月に一度は、ポンプ車から水が出るかどうか確認して、燃料、オイル、グリス等の補充をする ことを言う。今回は、その後、操法大会の練習をした。操法大会というのは、5人一チームで、一連の 消火作業の、機敏さ正確さを競う大会である。かなり、肉体的精神的にハードな、動きなので、早めに 練習を開始したのだが、やっぱりきつくて、今日は体が痛い。
そして、今日は、青年塾のファックスネットを送るのに、トラブル発生。後は、稲の種を運んだぐらい で、結局、田んぼには出れなかった。何事も、最初は時間がかかる。メーカーでは、簡単にできるよう なことを言うが、やはり、何かにひっかかってうまく行かない。パソコンのネットワークにしても、こ のデジタルファックスにしても、巨大システムを、完璧に動かすのには、相当のコツが必要と感じた。
もう、こんな電磁波がバリバリ出ている機械の仕事ばかりしていると脳が痛い。今日は、じっと家に いよう。


1999年3月6日


昨晩は、PTAの懇親会の二次会の場所取りに行ったお店で、なんと学級委員長さんと遭遇。なんで、 こんなところに居るの?と思ったら、そこのママさんだった。みんな、色々な仕事をしているんだな あと感じた。すごく、熱心な方で、ずいぶん去年は助けてもらった方なので、話に花が咲いたが、ど うも、この店のことを知らないのは、会長の私だけだったようである。それにしても、ビックリした。
今日は、スタッフは総出で、かきもちの配達、包装。私は、農作業計画と作付け計画を、あーだ、こー だと、頭をひねっていた。超複雑なパズルを解くようなものなので、やってみては壊し、壊しては作る といった具合だ。そんなときは、パソコンは役に立つ。
今から、消防団のOB会発足式があるので、出かける。大規模災害には、どうしても、経験者の力が必 要になってくる。ハシゴにしても、どうしても、持ち手が足りない時がある。団員数22名の小さな団 なので、期待できるかもしれない。しかし、またまた飲みがあるので、ちょっといやだなあ。大体、明 日も、消防の点検日で出動なのに。


1999年3月5日


ショックだった。やはり、死に顔を見ると、現実を突きつけられたようだった。ご両親、そして、奥さんの顔をまとも見れなかった。特に、子供は、まだ3ヶ月で、父親のことなど知る由もない。深夜に、 友人達と帰ってきて、一人、泊まっていったので、少し飲んで寝た。
午前中は、とても仕事をする気にもなれず、友人を金沢駅へ送って、ちょっとあぜ塗りをして終わり。 午後は、あぜ塗りをしていたが、途中、雨が降ってきて逃げて帰ってきた。夕方から、町PTAの実行委員会があって飲み会がある。絶対、早く帰ってこようっと。


1999年3月4日


昨晩は、久しぶりに、ハシゴの練習をした。もう、練習というより、ストレッチみたいなものである。 その後、消防の操法訓練大会の練習をするので、ギックリ腰防止の意味もあって、やっている。3ヶ月 ぶりの、ハシゴはさすがにきつかったが、なんとかできたので、ホッとした。
日中は、農作業請負申し込みをまとめていたが、ある程度、できたので、藤井嬢に、入力をお願いしようとネットワークパソコンを動かしたとたん、ファイルが動かなくなってしまった。結局、午後一杯かかっても原因がはっきりしなかった。どうも、エクセルのリンク機能が悪さをしているようである。まったくもって、便利になっているのか、不便になっているのやら。
そして、あぜ塗りを形ばかりして、今から、PTAの実行委員会だが、お願いして、早退させてもらうことにしようと思う。完全に終了するまで、待っていたら、富山県入善町だから、帰宅が午前様になってしまう。それこそ、自分が、突然死するかしないかの、ボーダー生活だ。


1999年3月3日


結局、あぜ塗りには行けず、一日パソコンでお客様の申し込みを元に農作業計画を練っていた。例年なら、もうバリバリやっているのに、年々遅くなる。果たして、間に合うのか不安になる。そして、その 不安をよそに、今日、ショッキングなニュースが飛び込んできた。
大学時代の同級生が、心不全で突然死。それも、奥さんが、お宮参りで帰省の直後だったらしい。コタツの座椅子で亡くなっていたのだが、発見されたのが、4日後で不審に思った弟さんが第一発見者らしい。「人は、死ぬ、それも平等に」という事実を知ってはいるが、こんな形で残された肉親や幼い子供のことを思うと、いたたまれない。実家が、富山なので、近い私ともう一人が、明日深夜に行くことに した。PTAの実行委員会があって、絶対にはずせないので、仕方がない。
これでも、血液型がBで、チャランポランとしているので、胃なんか滅多に痛くならないし、つらくなれば、サボるし、適当にやっている。それでも、スーパースケジュールでしんどいのに。もっと、適当にやろう。


1999年3月2日


稲の育苗用の箱を納屋の2階から降ろした。中村君のがんばりもあり、順調に1万箱あまりを午後2時 過ぎまでには、全部終了。やれやれ、今日は順調だなと思いながら、かきもちを干す棚を片付けていた ら、消防無線が騒がしい。火災情報を電話で聞いたら、粟田3丁目で火事というではないか。ほんとに 近所でびっくり、あわてて消防車格納庫へ行き、出動。アパートの一室を全焼してほどなく鎮火。大火 事にならずに済んだが、その後、ポンプ車が調子が悪くて、解決して、帰ったのが、午後7時半、食事 をして青年塾の連絡をしていたら、もう夜である。
はっきり言って、参った。農作業計画できる、唯一の日だったのだが、疲れ果てて何もする気がしない 。
明日から、あぜ塗り、果たして体力が持つのだろうか。


1999年3月1日


一日、床土運び。天気が良くて、ボーと仕事をしていた。しかし、いよいよ、コンピュータのネットワ ークもほぼ完成。農作業の計画に入らねばならない。しかし、日中は、なかなか雑用が多くて進まない 。世の一般サラリーマンのように、残業せねばならないか。





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