志を得るまで~封印された天皇杯

林さんちの社長が「食と命を伝える使命」に気づくまでの七転八倒の物語です。

封印された天皇杯受賞

平成3年の春ごろ、農業改良普及センター(農業について色々指導してくれる所)の方が林さんちに来て、「今度、毎日新聞の農業コンクールがあるから林さんちも出んけ?」と言って来た。

実は、農業界では、実に多くの賞が設けられている。NHK、朝日新聞、その他、県単位でも色々である。私の仲間でも、多くの方が受賞されていました。しかし、林さんちは、そんな賞にはまったく興味が無く、普及員さんの「順番だから、、、」と言う、殺し文句に、仕方なく承諾したのでした。

ところが、これが、事件の始まりでした。とにかく、調査調査の毎日です。当時30歳になったばかりで、遊びたい盛り。うっとーしくて。しかし、聞くとこの年、毎日新聞の農業コンクールの主催県が、石川県で、絶対に最高賞の大臣賞を取る任務が、彼ら普及員さん達に課せられていたのです。しかし、そんな事は、まったく関係の無い私は、事あるごとに反発。普及員さんが、なだめたり、すかしたりして、ようやく提出書類を仕上げました。


反抗むなしく!?農林水産大臣賞受賞

当時、私は、28才で(有)林農産の代表取締役になって、積極的にパソコンを経営に導入。農作業日誌や土地台帳を組み合わせ線形計画法と言う手法を取り入れ、大規模稲作を目指していました。


でも、その勉強会は、自分達で立ち上げた「アグリネットワーク」という会を中心としていて、行政をあてにしたものでは、ありませんでした。と言うか、農政大嫌い人間だったんです。しかし、コンクールの発表を、ジーパンで行ったり、ギャグを飛ばしたりと言う努力もむなしく、農林水産大臣賞を受賞。


この時も、お礼に県庁を回れと言う事に対し「誰にも世話になっていない」と猛反発。問題は、この後、各コンクールの大臣賞が、さらに全国農林水産祭という会で天皇杯へノミネートされる点だった。ちなみに、近所の(株)ぶった農産が、以前受賞していて、エライ騒ぎになったのを知っていました。



まさかの天皇杯受賞

まあ、絶対にこんな若造に、そんな事はない、とタカをくくっていたけど、ある秋の夜に「天皇杯受賞おめでとうございます。受賞の感想をお願いします」と言う電話があった。この後のマスコミ攻勢には参った、、、(T_T)サッカーや、スキージャンプの天皇杯は知っていたが、農業にもあるとはほとんどの方は、知らないと思う。「農産」「畜産」「水産」「林産」「村づくり」「園芸」「蚕糸・地域特産」の七部門に、それぞれ1個3千万円相当のオールプラチナ製の杯が、授与されるのである。


すっごい、もらえるの?と聞くと、1ヶ月間だけ持ち帰り、後は目録を所有、1年後に返還でした、残念。

全国で農業関係の賞は500以上!あって、 その中から選ばれるのは不可能に等しいとタカをくくっていたのですが、甘かった。まさかの受賞でした。こんな貴重な賞を、30才そこそこの、アンちゃんに授けたのですから、大変です。しかも、本人は、欲しいと思っていない。受賞にしたがい、何やら、出歩く事が多くなり、自分の時間が割かれることに、すごく反発を感じていました。その時も「誰の世話にも、なっていない。なぜ、関係ない奴に頭を下げにゃならんの!」と思っていました。


予行練習に代理を立ててバイクレースへ

11月の新嘗祭に合わせ、授賞式が、明治神宮会館の農林水産祭にてありました。もともと行く気が無かったのですが、前日、茨城のツクバサーキットでバイクレースに出場した帰りに、寄りました。もちろん、前日の打ち合わせや、予行演習は、担当の普及員の方が、代理で参加。当日も、他人顔しているので、代理の方が、私と間違えられることが、しばしばありました。

授賞式では、天皇杯を始め、内閣総理大臣賞、農林水産大臣賞、その他各賞の授与がありました。


会場は、2000人以上で、埋まっています。なんで?と聞くと、ノミネートされた500人余りの方と関係者には、皇居内を回る特典があるというのです。親戚縁者全部連れて来たのでは、と思う勢いです。

私は、1人で来てますし、出来れば、早く帰りたかった。なぜなら、前日、友人と飲み過ぎて、気持ち悪かったんです。

皇居の中は、広くて、1周1時間くらいかかりました。授与式で、何かの賞をもらっていた年配の方も、両脇を抱えられながら、それでもつまずきながら歩いていました。天皇杯って、こういう方に授けるべきじゃないの?と、考えていました。


最厳重取り扱いの天皇杯

「やれやれ、終わったから、この天皇杯を県庁の金庫でも、入れておいて」と頼むと、そんな責任は持てないと言うんです。「責任持てないモンをくれるな!」と怒りながら、結局、デッカイ天皇杯を飛行機に持ち込むことになりましたが、当然、手荷物預りと言うわけにも行かず、レントゲン検査で引っ掛かりました。警備の人に「目が潰れても知りませんよ」と言い、杯の箱を開けると、

チラッと菊の御紋が見えた瞬間「結構です」と言われ通過しました。

家に帰っても置く場所がないので、寝床で抱えて寝ていました。やれやれ、、、、(-_-)

受賞の背景には、林さんちの大規模、パソコン、Uターン等々が、当時の農政ビジョンに、ピッタリだったのです。でも、身分不相応の賞を受賞し、その後の数々の事件以来、林さんちでは、天皇杯については、封印される事になりました。しかし、10年を経て、林さんちが、なぜ今のような活動をするようになったかを説明するには、そろそろ封印をとく必要が、あると考えました。ただし、巷では、ネタ不足からと言う声もありますが、、、、(^○^)


天皇皇后様は、いい人だった

天皇杯をもらって、唯一良かったのは、夫婦で、天皇皇后両陛下と、直接、10分も話しを出来た事です。しかし、拝謁に当たり、宮内庁からは、服装は、燕尾服と黒留袖、しかも、御下問(陛下の質問)には、直接答えてはいけない。審査委員長を経て答えなさいと言う、指示があった。当時、次男が乳児で、着物は困ったなと考えていると、宮内庁から、「陛下の希望で、華美な服装だと、受賞者との距離がある。平服で来て下さい」と、連絡あり、これで、一発で天皇陛下のファンになってしまった。

平成5年1月に、私達親子と妻の実家の母親の5人で、東京へ向かいました。ところが、打ち合わせ場所の農林水産省の会議室が、タバコの煙でモウモウ。こっちは、乳飲み子を抱えているのに、おかまいなし状態に切れて、打ち合わせもそこそこに、途中退席してしまった。しかし、この時、陛下から重要な指示があったのである。

それから、バスで皇居内の待機所へ行き、そこへ、子供と実家の母を残し、受賞者だけで、いよいよ拝謁場所へ。「お~ここが、天皇様の家か!」と、厚さ5センチはありそうな、重厚な絨毯を踏みしめ、入り、しばし待った。すると、御簾の向こうのエレベーターから、天皇皇后両陛下が、降りていらっしゃり、お目通りとなった。この時は、型通りの挨拶をして終了。「なんだ、もう終わりか、、、、」と思っていると、各受賞者のパネルが置いてある別室に、案内され、そこで、再度、お会いしました。なんと、各受賞者に10分も、歓談されると言う事で、ビックリ!しかし、私は、まだ大きなミスを犯していたことに、気付いていませんでした。


天皇皇后両陛下を無視

天皇皇后両陛下が、とにかく、気さくに、私達夫婦に直接、話しかけてくるのです。ご下問には、直接答えてはいけないはずと、審査委員長の顔を伺うけど、あっちを向いたまま、、、。そうなのです、さっきの打ち合わせで、陛下が直接お話ししたいと言う希望から、直接会話が許可されていたのです。しかし、一番バッターの私達は、知るよしもなく、せっかく、話かけてくれた陛下に、失礼な事をしてしまいました。

途中、ハッ!と気付き、ようやく会話を始めましたが、もったいない事をしました。「林さんは、デザインの大学を出たそうですが(なんで、知っての?)、先生は、この事をなんておっしゃっていました?」と天皇様、「すごく、喜んでくれました。モノ作りはデザインも農業も同じです」と私、大きく皇后様と顔を見合わせ「喜んで下さったそうだね」うなずく天皇様、「そ~」とうなずき返す皇后様、そして、妻に顔を向け、「それは、良かったですね」と皇后陛下。やんごとなき会話を、その後楽しみました。

雅子様とのお見合いの儀式が、二日前にあったばかりの多忙な天皇皇后両陛下が、実に、受賞者の事を詳しく細部まで、勉強していることに、驚かされました。実に「いい人」と言うイメージで、大ファンになりました。待機所に帰ると、次男が、大便をしていて、その紙オムツを仕方ないので、そこに置いてきました。おそらく、皇居に、使用後のオムツを置いて来たのは、私達が最初で、最後でしょう、、、(-_-)


天皇杯シンドローム

帰って来てからは、とにかく、テレビの取材やらなにやらで、大忙しでした。しかも、恐れていた事が起きました。祝賀パーティーをしてくれと、各方面から言われるようになったのです。普通、お祝いは誰かがやってくれるものですが、この場合、自分でやるのだと言うのです。以前、ぶった農産の時は、400万円以上かかったと聞いていましたので、やる気がなかったのです。

散々、ごねた挙句、町の担当課長が、頭を下げて「頼むから、やってくれ」と言われるに至り、仕方なく開催を決めました。金沢市のホテルを借りて、催しましたが、知事をお呼びするようなパーティーですから、金のかかること、かかること。バンケットも、ビックリするような美人ばかり。しかも、後で、写真を見たら、酔っ払ったオヤジさん(失礼!)とのツーショットばかりで、腹が立ちました。それでも、引き出物は、九谷焼や輪島塗りではなく、私の作ったお餅と、地元のキウイワインを贈りましたが、私の抵抗もそこまで、ほとんど、行政側の思惑通り事が進みました。結局、経費は、200万円以上かかりました。


これに、腹が立った私は、「本当に世話になった人との祝賀会」を企画。林さんちのスタッフ、近所の方を、お呼びして、近所の料亭で行いました。これは、実に盛り上がりました。ところが、私自身が、天皇杯に対し、否定的な態度を取るので、参加者も、酔いが回るにつれ、さすがに、天皇杯に、、酒を注ぐ事は、宮内庁から禁止されていましたが、頭にかぶったり、前に当てて見たりと、ふざけていました。


バチが、当たる

しかし、バチが当たるとは、この事で、その後林さんちの関係者は、次々と災禍に見舞われて行ったのです。まず、「平成5年は、大冷害の年」スタッフも「仕事の事故で、腎臓を一つ潰す」「交通事故で、川に転落、怪我」「二留年で、大学卒業出来ず」「私の母親が、乳がんで手術」その他も、色々ありましたが、トドメは、私が、バイクレースで転倒。アバラを5本折ってしまったのです。


食と命を伝える使命

さすがに、病院のベッドで、白い天井を見上げながら、考えてしまいました。「一体、これは、なんなんだ?」身分不相応な天皇杯、その後の数々の災禍。そして、たどり着いた結論が、「天が、私に食と命の大切さを伝える使命を与えている」でした。そう言えば、なぜか昔から、マスコミの取材が多く、不思議に思っていました。でも、面倒なので、いやいや取材を受けていました。でも、そう考えると、つじつまも合うし、気が楽になりました。そして「皆さんのお陰で、生きていられること」を痛切に感じました。

なんとか、退院してからは、多少謙虚に、そして積極的に、農業について語るようになりました。子供達への稲作体験授業、各種講演活動、そして、このインターネットでの情報発信も、その一つとして、取り組むようになったのです。それが私の使命であり、志です。


「What's your misson?」

知り合いのバングラデシュ青年から聞いた話ですが

かの国では、子供は、こう両親に問い掛けられながら育つそうです。

さて、あなたのミッション(使命)は、何ですか?