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林さんちのあぐらぐち物語 2002年 番外編
林範子が語る食育の話

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 こんにちは。林 範子と言います。今日は一つよろしくお願い致します。
 まず、去年も最初にお断りしたんですが、話の途中で突然、しゃっくりが出るかもわからないんです。
 これどうにも私、体質なもんですから、おかしいだろうとは思いますが、ここはひとつ、ご愛嬌ということで、よろしくお願いしたいと思います。
 それから、前回初めてこういう人前で長時間お話させて頂いて、全くの初体験だったんですね。それが、まかり間違って、たまたま最後まで詰まらずに、どうにかお話できたんですけれども、何しろ後にも先にも、これ一回こっきりですので、今回、言葉に詰まって、なかなか出て来ないようなことがあるかもわかりません。どうか、暖かく見守ってやって頂きますようお願致します。

   さて、前置きはこれくらいにしまして、今日は、「農家主婦の視点から見た食と農」ということで、お話を進めていきたいと思います。当初は、「農業への夢」ということで、お話を頂いたので、かなり違った内容になってしまって、ご期待に添えるかどうか、心配なんですけども、、、
 それで、このテーマを夫に言いましたところ、「なんや。インパクトの無いテーマやな。」と、さっそくに言われてしまいまして、ちょっとショックだったんですが、じゅあ、どんなことをお話ししたいのかと言いますと、実は、去年秋、もう半年余り前になりますけども、中国に行く機会を得まして、山東省沿岸部の食品加工場ばかり、5ヶ所ほどを視察してきました。この中国視察から感じ取って来たことと、もう一つ、日頃子供を育てる親として、また農家で食に携わっている主婦としての実感から、「どうも近頃の日本人は、畑のもの、と言うと、野菜です。野菜をどんどんと食べなくなって来ているんじゃあないかな。」と、いうことなんです。ちょうど去年は、セイフガード発動の騒ぎで、一斉に、「中国の脅威」という報道がされました。視察に行かれた方たちの間でも、そういう感想は多かったんですが、私の感じ方は、ちょっとかわってまして、中国に対してどうのと言うよりも、むしろ、私達日本人がですね、もう加工食品やら、ファーストフードみたいなものばかり食べるようになってきて、生の野菜から手をかけて、調理して食べるということが、ホントに減ってきているんじゃあないかな、ってことの方に、強い危機感を感じているんです。 野菜の消費量だったら、農政局の皆さんな、ちゃあんと、データで持つとられると思いますから、「そんなこと今更、お前に言われんでも判っとるわいや。」って、言われそうなんですが、これはもうホントに、主婦の実感以外の何物でもないんですね。
 お米を食べなくなってきていると言うのなら、遠の昔から、小学生に聞いたって知らないものいないでしょう。ところがです。、こと野菜となると、それ程目に見えて、意識されていないように思うんですよ。野菜は生物ですから、食べられなければ、当然、腐ってなくなる。というか、正確に言うと、処分されてしまうわけです。そうすると、お米のように、目に見える在庫として、残りませんよね。だから、意識されにくいのかなあ、と思うんです。これがそのまま、そんぐり残っていたとしたら、もう大変なことになってないでしょうか。

   とにかく、食べてくれる人があってこその農業、私達生産者ですから、食べ方を知らなくなって、食べてもらえなくなっていったらその生産は、萎んで行っても当然じゃあないでしょうか。何だか、至極、当たり前のことしか言っていないようですが、「じゃあ、どうしていったらいいんだろ?」と、いうことです。
 去年は、作物を「作る人」を増やしたい、育てて行こう、という話をしました。実際、関係機関の皆さんにあっては、大いに尽力頂いている所で、我家でも、わずかながらもそういう方向に動いております。「作る人」つまり、農業生産人口の確保も、もちろん、待ったなしの状況なんですが、今度は、「食べる人」を、というか、「食べる人」から、育てて行かんならんのじゃないか、ということを、これからお話して行こうと思います。

 それでは、まず、中国のスライドも少し見て頂きながら、(どんな風に食べなくなっているのかですけれども、、、)弁当用の冷食でチン、とにかく、私達主婦が、家庭でやらなくなった調理の肩代わりしている現場を、目の当たりにする思いだったんです。もっとも、主婦ばかりでなくて、男の方だって、誰がやったっていいんですから、主婦だけの問題でもないんですがね。よく、中国は「世界の工場」という言い方をされていますよね。これはもう、「日本の台所」じゃないかと思ったんです。台所に包丁が無い家庭が増えている、と言われて久しくなりますが、皆さん「ホンマかいな。」と、思っとられませんでしたか。私も、にわかには信じがたいと思ってきたんですが、こういう所を見て歩いて、なるほど、「そういう家の台所は、中国にあったんやなー。」と、いうのが分かりました。
 少なくとも、包丁の有る普通の家庭でも、その稼働率は、確実に減っているだろうと思われます。
 ここで、ちょっと話がそれるかもわかりませんが、こうして私達の代わりに、調理をしてくれている若い女の子達の作業風景を見ていると、何か思い出されることは、ないでしょうか。私にはね、この光景がね、明治の製糸工場の女工さんのように見えたんです。まさに、野麦峠の世界ですよ。
 そうして、手のかかる面倒な作業を代りにやってもらって、浮いた時間で、私達は一体何を得ようとしているんだろう。ただ単に楽をしたいだけなのか、何なのか、非常に考えさせられました。帰ってきてからも、ずっと気にかかって,つらつらと考えていると、今度は、以前見たあるテレビ番組を思い出したんです。それは、イギリスの国営放送が制作した番組で、ほぼ一世紀前、1900年当時のイギリスの生活を、町ごと忠実に再現したものでした。見られた方、いらっしゃるでしょうか。ある家族が親子4人で、現実とは隔離された状態で、半年間だったか、三ヶ月間だったか忘れましたが、とにかく1900年のイギリス社会に、まるでタイムスリップしたかのようにして、生活を体験するというものだったんです。着る物から、食べるものに至るまで、きついコルセットを毎日して、お風呂のお湯はおろか、炊事用のお湯を沸かすのにも、一苦労で、洗濯をするのにも、もちろん手でゴシゴシ一日中かかったり、髪を洗うのに、酢と卵を使ったり、卵を採るのに鶏を飼い始めたり、、、といった具合で、何から何まで、もう生活すること自体に、いちいちすっごく時間がかかる。朝から晩まで、そういう生活が描かれるわけです。そういうお母さんに対して、お父さんの方は、軍人の設定で、今のサラリーマンとそんなに変わりなく、朝家を出て、仕事をして帰ってくる。全然、楽なんですよ。そうこうしているうちに、これじゃタマラン、ということで、当時の軍人家庭がそうであったように、メイドさんを雇って、家事をやってもらうんですね。こうして、大変な家事から開放されて、このお母さんはどうしたかと言うと、当時盛んになっていた女性参政権運動に参加して、女性の開放活動に動き始めます。ところが、そのうち今度は、ある矛盾に悩み始めるんです。女性の地位向上のためと言いながら、同じ女性であるメイドさんに、重労働である家事を強いて、自分は活動している。そのことに疑問を感じて、迷ったあげく、結局最後には、メイドさんに辞めてもらって、元の生活に戻るというものでした。
 さて、何で長々とこんな話をしたのかと言いますと、もしかしたら私達日本女性も、これと同じことを、中国の若い女の子達に対してしているんじゃあないのかな、と思ったからなんです。日本女性の社会進出の結果として、中国の若い女の子達に、女工さんのような労働を要求しているとしたら、同じ女性として、それでいいのかな、と私には思えるんですけども、おかしいでしょうか。(使い捨て)こんな風に、時代を超え、国境を越えて、歴史は繰り返されていることに、同じ道を歩むより、他に選択肢は無いものなのかな、という思いがしています。そしてこれには、台所仕事、ひいては食を賄うことに対する社会的評価が、あまりにも低いことが影響しているのではないか、と考えるんです。つまり、女性が家庭で、食を賄うことにあきたりず、仕事へ社会へと走るのは、経済的豊かさを求めてはもちろんのこと、台所仕事をしていても得られない、社会的評価や尊敬というものを、求めようとしているからではないか。そういうことも、一つの要因になっているように思うんですね。正直言って私もその一人でして、未だに外仕事をほとんどしていないで、中のことをしていると、やっぱりどうしても肩身が狭いような、居り場の無い感じって自分ながらあるんです。それに私、食事の仕度がとっても遅いんですよ。そうすると、「お母さんはフランス料理だから、一つずつ出てくる」、って言われるんですね。これ、誉めてるんじゃありませんよ。時間がかかるのの皮肉なんですね。手をかけて料理をすることが,必ずしも、良く言ってもらえない、評価してもらえないんですね。
 という訳で、効率優先、経済偏重の社会思想が、主婦の家事労働に対する評価を低くして、食を軽んずることにもつながってきたのじゃないか、というのが私の主婦をしていての実感です。

 とにかく、女性の社会進出が進んだ結果として、食卓にはこのように大量の加工食品が流れ込み、外食中食産業が繁盛している。素材から手をかけ、時間をかけて調理(スローフード)しなくても、何時でも、簡単に、チンしてすぐ食べられる(ファーストフード)。しかも、食べ残して捨てるくらいに、豊富に有るんです。これじゃあ、文字どおり、有り難味があるわけありませんよね。こうして、ますますもって、食べることが軽んじられているというのが、今の日本の食の現状だと思います。

 さて、ここにもう一つ、食が軽んじられる要因があります。普通に考えると、手をかけて料理したもののほうが、ファーストフードなんかよりもずっと美味しいはずなのに、今の子供達、どういうわけか食べませんねえ。うちの子達なんかも、ホントにもう悲しいぐらいに、食べません。これは一体、どういうことなんだろ?母親として子育てしていて、ほんとに理解に苦しむくらい、すんごい謎でした。いろいろ考えて、最終的に行きついたのが、「これはどうも化学調味料の仕業かな」、ということなんです。
 今の世の中、この化学調味料だとか、アミノ酸だとか、まったく使われていない食品を探す方が難しいぐらいに、あらゆる食品に浸透しきってます。今の子供達は、もう赤ちゃんのとき、ホントに早い時期から、この強烈な味、味覚神経から脳みそに直接作用する強烈な刺激にさらされています。これに舌が慣れてしまうと、天然の旨味、繊細な味が解からなくなっちゃうんですね。もう舌が麻痺した状態で、感じないんですよ。そうして、何も入っていないものを食べると、物足りなく感じてしまうんです。強い味じゃないと、おいしく感じられなくなっちゃうんですね。こうして、より強い味、より強烈な刺激をもとめていくと、加工食品であったり、スナック菓子・ファーストフードだったり、外で食べた方が美味しいし、さらにはジャンクフードとなるわけです。一方、うちでお母さんが作ったものは、美味しくないし、美味しくないものは、食べない。残す。どうも、そういうことらしいです。
 日本人はもう、すっかりこのアミノ酸にやられてしまって、味付けされてないものは食べられなくなっているんじゃあないかと、絶望的な感じさえしています。(かきもち) こういう訳で、最近では、若者の奇食(奇食の奇は、、、)や、味覚異常といった話題が、マスコミでもよく取り上げられていますよね。
 我家では、もう何年も前から、研修生やインターンシップの学生さんを受け入れていますが、この春来ていた女の子は、(農業土木を専攻していて、将来は皆さんのような公務員を目指しているんですが)お菓子が主食だと言うんですね。ちょっとアトピーの気もあって、ポリポリやりながらでも、一日一食で、あとはお菓子で済ましちゃったりする、というんです。その彼女が、研修後に寄せてくれた感想がありますので、ここでご紹介したいと思います。

 ということですが、ここでちょっと補足しますと、我家では、こういう研修生はもちろんのこと、普段でも、チョンガーの従業員やバイトも、まあ、せいぜい2,3人までですが、家族と一緒に食卓を囲んで、ワイワイとお昼ご飯を食べています。食卓に並ぶのは、もちろんうちで作ったお米に、おばあちゃんの家庭菜園の野菜。素朴な手料理ばかりなんですけれどもね。それから、農村社会ではまだ結構、物々交換の文化が残ってまして、ご近所の皆さんや色んな方から、旬の竹の子やら、山菜やら、季節季節の採れたてのものだとか、お漬物、お裾分けみたいなものを、なんやかやと頂戴するんですね。有難いことに、こういう頂きものでかなり食べさして頂いています。

 うちの研修では、農業の実作業体験ばかりでなくて、こういう農家の食卓、暮らし全般をひっくるめた中から、彼女のように、何かしら、感じ取ってくれているものがあるように思います。どうも、子供の頃に経験できなかった、土に根ざした生活の豊かさーつまり、食べ物を作ることと、食べることが結びついた暮らしですね。―そういうものを、我家で追体験しに来ているのかなー、という感じがしています。

 ところでですね。こういう研修にやってくる若い人達に、先程の子もそうでしたが、最近アトピーの子が結構多いんですよ。アトピーの他にも、花粉症だとか、アレルギー体質などといった現代病が、食を見なおす機会になっている。アトピーという痛みによって、気付きの機会を与えられた人達と言えるかもしれないんですね。逆に言うと、痛みという気付きの機会が与えられていない大多数の人達は、依然として、経済至上主義とアミノ酸に、どっぷりと毒されていて、飽食という形で食べ物を粗末にしていたり、食べること自体に欲が無くなっていたり、様々な形で食を軽んじている。というわけです。
(ホントに人間、身をもって痛い目に会わないと解からない悲しい生き物やなー、という感じがしています。)

 さて、そこでです。痛い目に会わないと気付けない人達に、いかにして気付いてもらうか。どうやって、食べることを見直してもらうか。そこが、問題なんですよ。それで登場してきたのが、「食育」ということですね。「食育」と言いますと、今、教育制度改革でいろんな取り組みが始まっているところですが、小学校の総合学習というイメージがありませんか。うちの夫も、最初は、5年生の稲作体験の地域ボランティアという形で始めたんですが、今では、この食育こそが小学生ばかりでなく、これからの農業に絶対必要なものだと、確信を得ているようです。
 そして、私が子育ての経験から言えることは、食育を小学校から始めていては、すでに遅いんですよ、ということです。素直に何でも吸収してくれる幼児期のうちに、農業体験をさせたいということも、一つにはあります。
 また先日、新聞の投書欄を見ていたら、こんな記事が載ってました。今ちょうどトマトが美味しい時期ですが、赤ちゃんの離乳食に、おじいちゃんが家庭菜園で作ってくれた、旬のトマトを食べさせたら、その子は成長してトマトが大好物になった、おじいちゃんに感謝という話です。とても恵まれた幸せな話ですよね。みんながみんなこういうわけには行かないでしょうが、これこそが食育だと思うんですよ。こんな風にして、食体験から人間の味覚って作られていくものじゃないでしょうか。
 ところが、今じゃ、ドラッグストア、大きいのが郊外によく有りますよね。男の方も入られること有りますかね。ちょっと覗いて見て下さい。ベビーフードにしたって、もう棚一杯にズラット並んでます。なかには、赤ちゃん用のカップ麺なんてのまであって、ビックリしちゃいますよ。ですからね、先程の化学調味料の話でもわかるように、食育はもう赤ちゃんから、赤ちゃんを育てる若いお母さん達から、スタートしなくちゃならないんです。現状では、保健センターなんかで、私達の頃もそうでしたが、保育士さんの育児指導という形で、食べ物のことも指導されてはいますが、希望する一部の人に限られてますから、この辺にもっと、力を入れていく必要があると思います。
 一昔前なら、台所で料理する母親やおばあちゃんの姿を見て、手伝いをしながら調理技術を覚えられたんです。また、日々食卓に上るものが、何を選択して食べるかの親の価値観として、子供に委譲されていったと思います。ところが今、加工食品をチンして出てきたら、作る過程がわからないじゃあないですか。だって、中国でやってるんですもん。作ることを知らない、自分では作れない子供が再生産されて、親になって行くわけです。
 正しい食知識を持った人は、ほっといても育たないんですね。それどころか、マクドナルドを見りゃ分かるように、コマーシャリズムの威力ってもう絶大ですから、簡単に洗脳されてしまってますよ。ちゃんと食べる人は、教えて、育てて行かなくちゃならない時代になったんです。
 一頃、農業界では、作るだけの農業から、加工して、売る農業。川上から川下まで、ということが盛んに言われました。そういう流れで、私達・生産者も進んできたわけですけれども、今は自分で売るところまでやっても、まだ足りなくて、今度は、何を食べたらいいのか、どれを選んで、どうやって食べたら良いのか、そこまで教えてあげて、やっと買ってもらえるんです。そこまでしないと、買って貰えなくなってきたんですね。つまり、ずいぶんマイナスからのスタートを、今の農業者は強いられているということになります。食育がしっかり出来ていて初めて、農業も成り立つ時代になって来たということです。
 これまでの農政が一生懸命、農家や直接、農業界に注ぎ込んできたことを、これからは食べる人・消費者にも振り分けて、食育にお金を使う。そういう事を、考えんならんと思うんです。おりしも、農政の軸足を生産者サイドから、消費者サイドへ、180度転換するということが発表されました。ぜひとも、食育に力を入れて、作物を食べる消費者を育てる方向にシフトしましょうという事をお話して、終わりにしたいと思います。
 最後まで このまま加工食品やら、外食・中食産業に片寄っていって、家庭で調理して食べるということがドンドン減って行くと、ますます日本で作物を作る必要、無くなりませんか。農業の成立自体が危うくなってくる。それを心配しているんです。こんなにも、簡単に食べられる食品が氾濫して、舌も慣れちゃっている中で、一体何を食べるのが本当に良いんでしょう。何を選択するのが良いんでしょうか。ちなみに、何を食べるか、どうやって選んでおられるでしょうか。選択基準は、、、いろいろ有りますね。まず、主婦の場合安いもの。健康に良いもの。最近は、安心、安全グルメ志向だと、高くてもとにかく、おいしもの。環境。地域。世界的視野をもって。最近では、そういう情報も、これまた氾濫している世の中ですが、正しい知識として、また生活の知恵として、次の世代の若い人達へ、そして子供達へと伝わっているでしょうか。これを伝えるのも、選択眼を育むのも食育の役割ですね。